歴史紀行
- 1 : 松田 [] 2002/08/26(月) 18:54
自宅の近くに神社があるが、そこは昔の城があったところで、戦国時代に毛利元就がその城を攻めたことがあるらしい。
私も歴史は好きで、時間さえ許せば、地元の遺跡や遺物を調べたり、訪れたりしているが、将棋の世話もあるので、なかなかできず残念だ。
私の「松田」の姓をたどれば、そのルーツは神奈川県の松田町にあるらしい。
どうやら、この地域に土着した「松田氏」は、元就配下の武将だったらしい。
・・・そんなスレッドです。
- 2 : 名無しさん [] 2002/08/26(月) 19:23
海賊「村上水軍」の末裔かと思っていたれど、何か・・・
- 3 : 竹田松二郎 [] 2002/08/26(月) 22:11
まぁ、【逆説の日本史】なんかに興味持つのはダメだな。
元就配下の武将の末裔なら、【三本の矢】でないとダメだな、孤立無援はダメだな。
『みよし風土記の丘』で【三角縁神獣鏡】一枚でも見付けないとダメだな。
- 4 : 松田 [] 2002/08/27(火) 06:07
以前、倶楽部24の掲示板に次のような問題を出していた。皆さんはお分かりだろうか。
(問題)「武田信玄」と「安国寺恵瓊」と「高杉晋作」の3名に共通することは何か?
ヒントは、この3名の名前に関係している。もちろん、将棋とは関係ない。
- 5 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 07:05
甥甥
モノホンgonが、なんぼ「高杉町」に住むかと言ってな、アホな問題出すなっ
信玄は・・・・・武田神社
恵瓊は・・・・・安国寺
晋作は・・・・・高杉神社
こんなん残していますねん。だけどなっ、モノホンgonの豪邸近くのショボイ高杉神社は
誰も知らんぞ。
まぁ、是が不正解なら、コジツケの愚問だな。
それとも、無理矢理に、3人とも武田門からの出とでも言うのかよっ。
- 6 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 07:26
何か心配になったので
もう一つ答え書くぞ。
武田町
安国寺町
高杉町
もある。何ての正解にしたら笑われるゾ。
あのなっ、佐藤町・吉田町・木村町・何でもあるからなっ。
栄養で無く、教養がはみだす問題出せよっ。
- 7 : 松田 [] 2002/08/27(火) 08:20
教養があふれ出る第2問
「後鳥羽上皇伝説殺人事件」は、私が住んでいる三次市が推理小説の舞台になり、テレビのドラマに過去2回なっている。
大学の研究レポートで「後鳥羽上皇伝説」を調べたことのある女子大生が、真昼に三次駅の構内の線路へ渡る渡り廊下の中央で絞め殺された。
さて、ここで問題であるが、乗降客の少ない三次駅の構内に入ろうとすれば、駅員に顔を覚えられる可能性があるのに、一体この犯人は、どこから入って、どこへ逃げていったのだろうか?
分かるかな? もし、さらに、犯人の職業まで当てることができれば、貴方は推理の天才。
- 8 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 11:20
犯人の職業は「小学校の平教諭」
1一角成りと入って5五馬と逃げた。
駅員がグルで、「平教諭ならイィカァ〜、校長ならぁゃcぃと警察へ届けるがなっ」と
見て見ぬ振りをした。
- 9 : 松田 [] 2002/08/27(火) 12:02
>>08ブブゥー、不正解。
まず、事件が起こって、すぐ三次警察は、改札口にいた駅員に「怪しい人が通りませんでしたか」と尋ねたが、犯人らしい人物が通ったという証言は得られなかった。
事件が暗礁に乗り上げたころ、東京から探偵が三次に乗り込んできた。
そして、その女性が、大学生の時に受けた精神的なショック以降、「記憶喪失」に陥っていたことをつきとめた。
その記憶喪失の女性が、なぜ、三次までわざわざ殺されにきたのかと、さらに事件の謎は深まる。・・・。
犯人とその大学生の接点は?
- 10 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 14:25
>「怪しい人が通りませんでしたか」
そりゃ、怪しく無い罠。聞き方が間違うとるでぇ、
「間抜けた人が通りませんでしたか」 又は
「話し方が間延びした人が通りませんでしたか」 又は
「7六歩・3四歩・・・と呟きながら歩く人が通りませんでしたか」 又は
「2階の住人に頭がアガラン アガラン・・と譫言、言う人が通りませんでしたか」 又は
「古い印刷機壊れたかな、買い直すかな、とブツブツ言う人通りませんでしたか」
大体になぁ三次警察はタルンどる、以前の件で呼んだ時に「お前も、ヤッタンダロッ」と絞り上げる
べきだった。間延びした話し方にユダンしたんだよっ。
- 11 : 松田 [] 2002/08/27(火) 17:29
その探偵と言うのは、テレビ第1作では長門裕之、第2作では水谷豊が演じたのだが、元女子大生の卒論のテーマが「後鳥羽上皇の伝説」だったということから、推理が始まる。
後鳥羽上皇の伝説と言うのは、県北各地に伝わる伝説で、承久の変で敗れた上皇が、隠岐に島流しになった時、鳥取経由で島流しになっtのは、実は替え玉で、本物の上皇は備後の国を経由して隠岐へ流されたという伝説があるのである。
上皇の泊まったという神社があって、「よきやどりかな」と上皇が礼を言ったから、「吉舎」という地名がついたとか、「君田」という地名は、上皇(=君)が この地に入ってきたからだとか、王貫峠という地名があったり、それに、上皇が読んだ「歌」なども伝えられており、この地方には伝説がたくさんあるのであ る。
その元女子大生は、上皇のたどったルートをたどって、卒論の研究旅行をしていたわけだが、運悪く集中豪雨にあい、あいにく泊まって いた旅館ががけくずれにあい、死ぬ目に遭った。実は、「そのおそろしい事件が、記憶喪失の原因らしい」というところまで、探偵の調べが及んだ。
- 12 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 19:45
甥甥
このテレビドラマのシナリオ誰が書いたか知らんがなぁ、後鳥羽上皇とか後醍醐天皇伝説
なんて日本の彼方此方にあるもんじゃ。俺の親戚の近くにも「恒性皇子」の墓あるけどなっ
何であんな処に後醍醐天皇の御落胤がおるんじゃ、三次なんかの「ど田舎」には何にも無いよ
ドラマの筋書きは知らんがなっ、学校で犯罪が起こると一番疑われ無いのが校長。駅で犯罪が
怒ると一番疑われ無いのが駅長。「平教諭」はぁゃcぃぞ。しかしなぁ、三文ドラマなら犯人は
【警察官】これじゃ笑うぞ。頼むから、こんな結末にするなよっ。モノホンgon。
「恒性皇子」の墓はバカバカしい事に宮内庁が管理しておるぞ。日本は「お笑いの國」なんじゃ。
それより、早く「みよし風土記の丘」掘れ、「三角知神獣鏡」か「縄文土器より古い土器」出たら
「ごんの鏡」「ごんの土器」として学会に発表しろ、アマ連ではダメだぞ。
- 13 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 19:49
>>12 訂正2個
>怒ると
起こると
>三角知神獣鏡
三角縁神獣鏡
バカバカしいから、打ち込んでそのまま書き込んだら、変換ミスしとった。
- 14 : 竹田松二郎 [] 2002/08/27(火) 22:03
>鳥取経由で島流しになっtのは、実は替え玉で
ビックリしたぁ〜 「替え玉」でエガッタァ 「ケン玉」ならどうしようもない
>本物の上皇は備後の国を経由して隠岐へ流されたという伝説がある
「備後」でエガッタァ もし「ビンゴ」なら偽物が「ケン玉」して遊んで、
本物が「ビンゴ」何かすると、又喧嘩になる。移動の対象となる。
アク禁でも成ったらど〜すんだぁ。
処で、1問目の答え何じゃ。
- 15 : 竹田松二郎 [] 2002/08/28(水) 03:03
昨晩、10時過ぎに飲んだ「梅酒」が原因で、こんな中途半端な時間に目が覚めた。
「歴史紀行」覗いたら、モノホンgon何も書き込んでいないナッ。
コリャ悪い予感ダナッ、犯人は駅長か警察官だな。三文ドラマのシナリオだよっコリャ。
敢えて言うなら、
>事件が起こって、すぐ三次警察は、改札口にいた駅員に
何て事を、お人好しの間抜けなモノホンgonが書き込んで居るから、【警察官】が犯人だろっ。
つまらんドラマ見るなっ。実戦将棋を数多く指せっ。
第3問は、せめて1週間頭捻る問題出せっ。「歴史」の教員免状返上しろっ。 キャヤハハハ
>犯人の職業まで当てることができれば、貴方は推理の天才。
俺は、天才じゃねぇよっ、「どん百姓の小倅」よっ3代目なんじゃ。
モノホンgonの様な、ん百年・十ん代続く名門とは違うけん。
- 16 : 松田 [] 2002/08/28(水) 07:03
>>12,>>15
この作者は、内田康夫さんと言って、有名な作家ですよ。
それに、2回もテレビドラマ化されているし。
>犯人の職業
>>15の推理は、ほぼ当たっている。
教員は、主犯ではない。仕事を休んで昼間に犯行を犯せば、後ですぐバレル。
駅長は、無関係。動機がない。
と言うか、小説のからくり自体が、「犯人はどうやって、人(駅員)に気づかれず犯行現場に入ることができたか」だから、駅員が共犯だったら、おもしろくもなんともない。一種の「密室殺人」だから、なぜ、路線橋(駅の渡り廊下)に入ることができたかがポイントである。
だから、犯人は昼間でもわりと時間が自由になる人と言うことになる。
- 17 : 松田 [] 2002/08/28(水) 07:30
>>14
(問題1)「武田信玄」と「安国寺恵瓊」と「高杉晋作」の3名に共通することは何か?
ヒントは、この3名の名前に関係している。
日本人の「姓名」は、ほとんど(約9割)が地名である。
つまり、御家人は「一所懸命」に将軍から与えられた領地に命を懸ける。
名前のことを「氏名」とよく言うが、日本人の名前で、「氏名」と呼ぶことができるのは、そんなに数はないはずだ。
源氏・平氏・菅原氏・橘氏と、もう一つど忘れしたけど、5つの氏名に、後に、天下統一をした「豊臣氏」が、つけくわわった。
つまり、「氏名」とは、基本的には6氏しかなかったはずだ。
例えば、毛利家は「毛利の荘」をいただいたから、「毛利」であり、本名は「大江」である。
「安国寺」というのは、寺の名前であり、当然本名ではない。
毛利家は単なる安芸の一地方の吉田の地頭職であり、安芸のもともとの守護職を滅ぼすことになるのだが、その滅ぼされた守護職の遺児が安国寺恵瓊なのである。
- 18 : 竹田松二郎 [] 2002/08/28(水) 07:50
甥甥
内田康夫さん何て知らんぞっ、今は「田中康夫」だろっ。《ヤッシーブーム》が信州で起きとるけん
>教員は、主犯ではない。仕事を休んで昼間に犯行を犯せば、後ですぐバレル。
当たり前だぁ、だから悪い先生は携帯電話使うのよ。『後で、ドコソコで逢おうねっ、お小遣いアゲルョ』
から新聞沙汰になるけん。気を付けろ。
>路線橋
ど田舎の駅の事分かる訳ねぇだろっ、【警察官】なら銀行も「立ち寄り所」なんよっ。何が密室かよっ。
温泉予約して図書券で麻雀する新潟県警の例もあるけん。
>犯人は昼間でもわりと時間が自由になる人
図星だろっ。わりとで無い、殆ど自由だ、忙しいのは交通課の警部補までよっ。
その上の、警部・警視・警視正・何か「自由時間」が取れる。皆で無いがな。真面目な人もおるけん。
もう少し難しい問題出せっ。教え子から笑われとるけん。
- 19 : 竹田松二郎 [] 2002/08/28(水) 07:59
>源氏・平氏・菅原氏・橘氏と、もう一つど忘れしたけど
もっと昔なら、大伴氏・藤原氏だった。齢48の「ど忘れ」では、やはり教員免状返上キャハハハ
- 20 : 竹田松二郎 [] 2002/08/28(水) 13:18
>>>15の推理は、ほぼ当たっている
モノホンgonよ、こんな見え見えの問題出すなっ。
ホモ当たっていると言われても俺はゲイでは無いけん。
それになっ、推理小説なら「松本清張」は何冊か読んだが、他は読まないから知らないけん
西村京太郎の名前は知っているが1冊も読んだ事無いけん。まして内田康夫なんて知る訳
無いけん。「松本清張」もモノホンgonの専門分野(??)の「古代史疑」は読んで呆れたぞ。
邪馬台国をわ無理に九州の山門とかに持って行こうとしたり、高木アキミツに至っては
宇佐八幡宮が卑弥呼の墓だとさ。推理作家も直ぐ分かる犯人像とか無理な設定はイカンぞ。
誰も知らない三次駅の「路線橋」はデジカメで撮りアップしないと、どんな形の物か分かんけん
外から見ても壁があれば犯人が【警察官】でも分からんけん。「平教諭」が犯人なら間抜けだから
「レーティング計算表」落として逃げるけんバレル。
- 21 : 松田 [] 2002/08/28(水) 22:49
まずは、第1問を進めなくては、
>>17のつづき
>安芸のもともとの守護職を滅ぼすことになるのだが、その滅ぼされた守護職の遺児が安国寺恵瓊なのである。
では、ここで、もともと安芸の守護職は誰なのか、皆さんはご存じであろうか?
まあ、これは、調べればすぐ分かるので簡単だと思う。
では、高杉晋作とは、・・・。
日本人の名前はほとんどが、「地名」であると、前に書いた。
私の住んでいるところは、高杉町である。しかも、昔、高杉城があり、毛利元就に攻められている。
高杉城に籠もった武将は、全員、討ち死に。元就は、三原から土を運んできて、それで城を清めて、神社を建てたという。
- 22 : 竹田松二郎 [] 2002/08/29(木) 06:54
>>21
オオッ、本格的になって来たなっ、「守護と地頭には勝てん」し大体、安国寺恵瓊なんて名前
初めて聞いたけん、
>高杉城があり、毛利元就に攻められている。
この中にモノホンgonの先祖が居たのかいな、昔の高杉ブッコワシタ張本人かよっ、
ブショウな事するなぁ、まさか【高杉晋作とモノホンgonが「イボ兄弟」で、かの有名な「揖保の糸」
ソーメンは私たちの先祖の考案である】 なんて言う気無いだろうなっ。
時々、先の事考えずに「尻メツレツ」な事言う癖あるケン。もう少し「ケツ松」考えてシャベレョ。
- 23 : 質問 [] 2002/08/30(金) 12:59
読んでみるとおもしろいですね。
「泣く子と地頭には勝てん」のギャグですか。
高杉晋作と松田さんの住んでいる高杉町は関係があるということですよね。
後鳥羽上皇の事件は,書いてあることがよくわからんのですが,犯人はどこから駅へ入ったのかを問題にされているようですが,普通に,改札口を通って,入ったのではないですか?
それとも,三次は小さい町だから,顔を覚えられるということがあるのかな?
- 24 : 竹田松二郎 [] 2002/08/30(金) 14:27
>>23
>普通に,改札口を通って,入ったのではないですか
犯人が【警察官】とバレタからモノホンgonは「困ったな」になりますただ。
後鳥羽上皇に付いては多分昔の「卒業論文」(モノホンgonはH大学で〈歴史専攻〉)
思いだすて書いとるけん。
>三次は小さい町だから
一応、す(市)だす罠。
- 25 : 竹田松二郎 [] 2002/08/30(金) 21:53
モノホンgonは「凝り性」だから、伝説なんか追っかけるより、近くの現実、例えばなぁ、
島根県西部・益田市に行って【画聖・雪舟と歌聖・柿本人麿 】の研究するとか
〜『万葉集』終焉の地・因幡〜 鳥取県へ行って
『万葉集』といえば大伴家持。その編纂に深くかかわった人物じゃ。その家持が最後に詠んだ歌、
すなわち『万葉集』最後を飾る歌は、赴任先の因幡国庁で天平宝字3年(759)元旦、国の役人らを
集めた祝賀会において詠まれた歌だったんじゃが。
新【あらた】しき 年の初めの初春の 今日降る雪の いや重【し】け吉事【よごと】
こんなの研究してなっ、『万葉学会』に出てみるとか、したらどうじゃ。
「アマ連」はモノホンgonの隠れた隠れ過ぎた努力を評価しとるんかいなぁ。
『万葉学会』の会費は1年間4000円らしいぞ。安いもんよ。推薦も何もいらないらしい
4000円で会員に成れる。どゃ、「逆説と伝説」追っかけるより面白いぞ。 と何となく言ってみる・・・
- 26 : 郷土史研究家 [] 2002/09/07(土) 22:30
>(問題1)「武田信玄」と「安国寺恵瓊」と「高杉晋作」の3名に共通することは何か?
まだ、答えを書いてなかったよね
「武田」氏と言えば、源氏の名門。
武田氏は、甲斐が有名だが、安芸の守護職も武田氏。
その安芸の武田氏の出先が、備後の国高杉村の武田氏。
安芸の武田氏を滅ぼすのは、元就だが、その元就は、備後武田氏も攻めている。
ただ、備後武田氏の場合は、高杉城が包囲される前に、2人の息子が脱出していて、後に元就に許されている。
現在、神社の近くに、武田家は残っていると同時に、山口県の萩市に高杉家(備後武田がルーツ)が存在するのはそのためである。
以上、この3人の人物は、いずれも「武田」一門なのである。
- 27 : 探偵 [] 2002/09/07(土) 22:46
>第2問 犯人はどこから来てどこから去っていったか?
私は、後鳥羽上皇の伝説にしたがった、広島県北にある、記憶喪失になった女子大生が泊まったという、旅館をたずねた。
そして、そこで得た驚愕の事実は、・・・。
なんあと、宿泊した旅館が山崩れに遭った晩、宿泊者は女子大生の他に、2人の女性と、3人の男性客がいたことがわかった。
ところが、運悪く、他の女性は生き埋めで発見されたがすでに死亡していて、女性客では1人だけ女子大生がかろうじて助かった。
しかし、同じ旅館の男性客は、避難していて無事だったと言う。
なぜ、男性客は無事に逃げたのに、女性客は逃げられなかったのであろうか。
- 28 : 竹田松二郎 [] 2002/09/07(土) 23:32
>>05
>3人とも武田門からの出とでも言うのかよっ
ありゃ、是も正解だすわ。オリィも郷土史研究家に成れるな。
>驚愕の事実は
よくも単純に驚愕なんて言葉使えるな
>なんあと
普通は、なあんと なんジャガイモ
3人の男と3人の女か、合コンでもすてたのかな
女3人は風呂に入ってたとか、男なら素っ裸でも逃げるがな
旅館の間取り図でも書いてくれ「探偵」君
- 29 : 探偵 [] 2002/09/08(日) 08:13
当時の出来事に詳しい人の証言が得られた。
がけくずれのあった当日、3人の男性と3人の女性は、女性の部屋に集まって、にぎわっていたらしい。
しかし、雨が激しくなった夜半過ぎ、がけ崩れの第1波が襲ってきたとき、男性3人は素早く逃げたのだが、女性3人は部屋で寝ていたが、しかし、なかなか出て来なかった。そうとう酔っていたのではないか。
そして、その直後、大きながけ崩れが、襲ってきて、旅館は飲み込まれた。
2人は、死亡。1人は、かろうじて助かったが、精神的なショックのため、記憶喪失。
隣室の男性3人は、がけ崩れの後、忽然と姿を消している。
- 30 : 探偵 [] 2002/09/08(日) 08:29
男性3人の素性や居所さえ、分かれば、この事件の大きな手がかりができる。
そんな中、庄原と三次で続けてある事件が起こった。
1つは、庄原では、交通事故で若い男性で会社の社長が、はねられ、死亡。
もう一つは、三次の高等学校の先生が、くびつり自殺。
・・・この事件は、全くの偶然なのか。
私は、2人の男性の出身校を調べた。すると、これも、偶然にしては、よくできているのだが、この2人は、同じ学校の同じ学年なのである。
このことを、三次の特捜本部の若い本部長に問いただすと、駅構内の事件と、庄原の交通事故や先生の自殺は、全く関係ないのだから、手を引けと言う。
その若い本部長は、広島県警から三次に乗り込んできたエリート警察官なのだ。
- 31 : 竹田松二郎 [] 2002/09/08(日) 09:29
オオッ 若い男性の年齢は
三次の高等学校の先生はモノホンgonの恩師かな
エリート警察官の「階級」は「警部」か「警視」かな 年齢は まさかH大学卒では
**自治会で午後2時迄外出するから、探偵君それまで書いておいてくれよ
- 32 : 竹田松二郎 [] 2002/09/08(日) 15:19
ありゃ、「探偵」君いねぇや、将棋大会でも行ったかな ?
>その若い本部長は、広島県警から三次に乗り込んできたエリート警察官なのだ。
オリィはドロボーで無いけど、警察の事はかなり詳しいぞ。「エリート警察官」が、ど田舎の三次署
に乗り込んで捜査本部長なんかやる筈無いけん。「エリート」とは毎年約20名「警察庁」で採用される
所謂「キャリアー組」の事言うのさ。22歳で採用されて25歳ならもう「警視」よ。27・8歳ならそれなりの
警察例えば「三次署」なら署長だよ。広島署とか福山署なら「警視正」が署長よ。
探偵君の言う「エリート警察官」は中国地方の有名国立大学卒(何とモノホンgon卒のH大学等)を
卒業して採用された「準エリート警察官」でこれは、どんなに早くても28歳で「警部」だな、「警視」何か
には、早い者で38歳位かな、ええっと、この作者山田、内田康夫かぁ、売れてんのかよっ。設定がデタラメ
だぞっ。大体筋書きが単純だな、犯人は>>12 で書いた様に「駅長」「平教諭」「警察官」の内で「警察官」
なら、安物ドラマ・三文小説で「エリート警察官」でオシマイ。男3人・女3人で旅館に泊まり
>精神的なショックのため、記憶喪失。
こんな筋書き何処にでも有る。Hな事して仲間殺して完全犯罪目論む。ぁゃcぃと思われ無い奴が犯人よ。
男1人・女3人ならオリィもカナーリ考えるが3対3じゃ、これしか考えられん。何せ、警察組織の基本も
知らない作者が書いとるけん。 どゃ探偵君。
- 33 : 探偵 [] 2002/09/08(日) 16:42
三次警察署の三階に捜査本部全員が集まった。
いよいよ、今回の種明かしが始まる。
まず、数年前の山崩れの事件から。
三次駅で絞殺された元大学生は、大学在学中に卒業論文で後鳥羽上皇の伝説を調べるために広島県の北部にある旅館に泊まった。
ところが、折り悪く、天候が悪く、集中豪雨が県北を襲い、外出不可能になった。
そのとき、同じ旅館に、女性2名と男性3名がおり、夜に、部屋へ集まって、コンパが始まった。
ところが、その男性3人グループは、女性客をレイプする目的で、ワインの中に睡眠薬を入れて、女性3人に飲ませたのである。
そして、3人は欲望を果たした後、女性客は寝かせたままで、自室に帰った。
ところが、深夜近くをまわったころ、山崩れが襲った。
男性3人は、すぐに避難したのだが、女性3人は、睡眠薬のため寝込んでおり、崩れた旅館で2人が犠牲になり、1人は助け出されたが、記憶喪失に陥った。
- 34 : コーナン [] 2002/09/08(日) 16:58
犯人は、お前だぁ!
- 35 : 探偵 [] 2002/09/08(日) 18:54
その女子大生は、記憶をとりもどすために、再び広島県にやってきた。
それが「死の旅」になるとは、・・・。
尾道の古本屋で、「後鳥羽上皇伝説」を手にしたとき、その女子大生は、かすかな記憶がよみがえってくる。
三次に行けば、・・・。
そして、わずかな手がかりをもとに、三次の高校の先生に電話がかかって来る。
驚いて、うろたえたのは、三次の先生だ。てっきり、旅館の事件がばれたと思った。
どうして良いか分からなくなった先生は、ある人物と連絡を取る。
連絡を受けたその人物は、その元女子大生に「三次駅構内のプラットホームに通じる線路の上の橋」の中央で待つように」指示を与える。
記憶が戻らない彼女は、その指示通り、福塩線に乗り、三次駅に到着し、改札口を出ないまま、陸橋の上で、学校の先生を待っている。
- 36 : 竹田松二郎 [] 2002/09/08(日) 19:53
>三次の高校の先生に
甥甥
まさか、その先生とはモノホンgonの学友で、又々参考人として三次署に引っ張られたので
無いだろうな。H大学はアルファベットの頭文字通り「エッチ」なのが多いからなぁ。
処で「後鳥羽上皇伝説」は何ら関係無いのかね、単に卒論のテーマだけなのかぃ ?
>線路の上の橋
前にも聞いたが、屋根・壁付きの橋なのか、道路の横断陸橋の様な「手すり」だけの橋なのかぃ ?
丸見えの橋なら犯行不能だぞ、三次駅なんぞ誰も知らんょ探偵君。
- 37 : 竹田松二郎 [] 2002/09/08(日) 20:29
>3人は欲望を果たした後、女性客は寝かせたままで
>睡眠薬のため寝込んでおり
甥甥
探偵君、この内田康夫はバカじゃねぇのか ??
オリィ残念ながらレイプされた経験無いけどなっ、どんな睡眠薬飲まされてもレイプされる時
には目を覚まし暴れるぞっ、しかもレイプされた後又3人共寝たのかよっ、強姦じゃ無ぇなぁ
和姦だよっ。《幸せそうにスヤスヤ・ウットリと寝ていたら山崩れ》かよっ、犯罪にも何にもならん
よっ。公判維持困難だなっ、無罪じゃ、それより「郷土史研究家」何処へ行ったか捜査しろ。
「後鳥羽上皇伝説」の結末聞きたいけん。早く探せ探偵君。
- 38 : 松田 [] 2002/09/09(月) 07:11
>線路の上の橋
駅なら、どこにでもある「橋」と同じ構造ですよ。
「正式な名前」がわからんので、説明に苦労してるんだけど。
三次駅の場合、改札口の前のプラットホーム(1番乗り場)に、上りの列車が停まる。
広島方面に行く場合は、線路を越えて、2番乗り場から、乗らなきゃならない。
屋根つき、壁つきです。壁には、いくつか、窓がついているけど、窓と窓の間の壁の部分や、窓から低い位置は、当然、改札口やプラットホーム上の駅員や客からは見ることができない。
改札口から入った客は、左に10mぐらい歩いて、階段をあがって、横断橋の通路を通り、階段を下りて、2番乗り場に出るのです。
女性は、線路の上の横断橋の中央辺りで、絞め殺されていたわけです。
下からは、壁があるために、見えないですね。
もちろん、第1発見者は、その橋の通路を渡ろうとした、お客さんです。
- 39 : 竹田松二郎 [] 2002/09/09(月) 09:02
オオッ !! 屋根・壁付きの橋なのか「密室」だな 探偵の代わりに松田さんが答えたぞ。
処で、ド田舎の三次迄行く広島からJRの線路は「単線」か「複線」かよ ?
オリィの親戚に行くときのローカル線は殆ど「単線」で「無人駅」なんよ。
真ん中にプラットホームがあってなぁ、渡る時は線路の上の道路よ。勿論、電車が来ない時
だけ渡れる事に一応はなっとるけん。上り電車と下り電車が、無人駅でも反対から来る電車
待ちで、かなり長い時間停車する事有るけん。一応三次は、す(市)だから屋根・壁付きで
駅員もおるな ? すかすなぁ探偵君、屋根・壁付きの密室ならハニーンの警察官は何でも出来るけん
大体なぁバスでも地下鉄でもJRでも「公務中」なら「乗車券」いらんけん。
こんなの、ドラマとしてはオカスイぞ、2度迄もテレビドラマに成ったと書いてあるがなぁ、観光客が
少ない三次商工会が、誘致したのじゃねぇの。 ぁゃcぃす(市)だな三次は。
- 40 : 検索を使ったら [] 2002/09/10(火) 17:23
三次駅で検索したら次のようなHPがありましたよ。
http://www.enjoy.ne.jp/~kanemori/asami-kikou.HTM
三次駅の跨線橋の写真も出てます。
- 41 : 竹田松二郎 [] 2002/09/10(火) 18:29
オオッ ! 「跨線橋」って言うのかよっ、モノホンgonは「横断橋」って言うし、探偵君は「陸橋」
なんだから、ややこすい罠。すかす期待に反せず古い駅だな「跨線橋」もダサイ。
すかすなぁ、うさぎちゃん のママは名演技じゃけん。
- 42 : 松田 [] 2002/09/11(水) 07:35
おお、「跨線橋」と言うのですか。知りませんでした。
写真があれば、よく分かりますね。わざわざありがとうございました。
線路の上の、跨線橋で、真っ昼間に、女性が絞め殺されたんです。
それも、目撃者なしです。
発見されたときには、すでに駅の構内には、怪しい人は、いませんでした。
- 43 : 竹田松二郎 [] 2002/09/11(水) 07:55
>怪しい人は、いませんでした
あのなっ07:35じゃ、学校遅刻せんかな、峠越えじゃけん ? 御飯食べたか ?
2階の住人と会話したか ? 小遣い持っとるか ? パチンコせずに真っ直ぐ帰れよっ !!!
犯人は「警察官」と決まっちょるけん、「跨線橋」の中で殺して改札出ずに又別の電車で
何処ぞへ行ったのじゃろ。怪しまれても「警察手帳」見せれば駅員も何も言わんけん。
- 44 : 光彦 [] 2002/09/11(水) 20:33
正法寺美也子が絞殺されたのを聞いて、すぐに、私は三次に入って、独自の創作を始めたのだが、旅館の泊まり客に、男性3人がいたことをつきとめた瞬間に、つぎつぎと、自殺や交通事故で、2人の男性がなくなった。
確かに、自殺や交通事故を装っているにしては、偶然すぎる。
そこで、私が推理したのは、犯人は、捜査状況をよく知っている人物ではないか、・・・。
真犯人は、共犯者から犯行がばれることを恐れて、さらに、2つの殺人を行ったのではないだろうか。
そう睨んだ私は、三次警察の3階に、捜査員や関係者に全員集まってもらった。
そして、三次駅殺人事件の真相が明かされる、・・・。
- 45 : 光彦 [] 2002/09/11(水) 20:36
あれぇーーー、・・・。訂正だ。
>>44創作→捜索
- 46 : 竹田松二郎 [] 2002/09/11(水) 22:40
『後鳥羽ちゃん』どったの?
忘れないでねっ 光彦ちゃん
- 47 : 光彦 [] 2002/09/12(木) 22:48
美也子の乗った列車が、三次駅の2番乗り場に12:43に着く。
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/61.jpg
わずかばかりの、乗客が列車から降り、跨線橋の階段を上がっていく。
乗客の列の最後尾に、美也子がついて歩いていたが、跨線橋の中央で歩くのをやめ、誰かを待つように、立ち止まっていた。
改札口から来る客と跨線橋でいくらかすれちがったが、どの客も2番乗り場から、広島行きの列車に乗り込む。
1分遅れて12:44には、上り列車が1番乗り場に着く。ほとんど全員の客が、列車から降り、改札口に向かうが、がっしりとした体格の男がただ一人だけ、改札口には向かわず、2番乗り場の方へ向かって、跨線橋の階段を上っていく。
朝夕のラッシュ時ならともかく、客の少ない昼間には、列車出発間際に跨線橋を渡る客はいない。
この運命の時刻に、跨線橋では、中央に立ち止まっている美也子と2番乗り場に向かう一人の男しかいない。
この男は、美也子の横を通り過ぎようとして、すぐさま振り向き、美也子のうしろから首にうでを回し、突如、首を絞めた。
美也子は声をもあげられないままに、首を絞められ、絶命。
男は、美也子が死んだことを確かめて、そのまま、跨線橋の階段をするすると下り、2番列車に飛び込む。
列車は、そのまま広島に向けて走り出した。
跨線橋の上で、死体が発見されたのは、次の列車に乗ろうとした客が跨線橋に上がって来る、40分後のことであった。
- 48 : ムネオ・ハウス [] 2002/09/12(木) 23:49
[委員長、47:の写真は40:の写真をパクッタ物である事を明白にしておきたいと思いますが・・・
いかがなものか・・・]
[私は、古い体質の警察官でありまして、がっしりとした体格の男と言うだけで犯人扱いされるのは
・・・いかがなものか・・・]
[美也子さんが絶命したからと言っても、必ずしも私が殺したとは・・・言い切れ無いのでは・・・
いかがなものか・・・]
[私が、上り電車で広島方面に向かったのは、北方領土の件の打ち合わせでして・・・一方的に逃げた
と言うのは・・・いかがなものか・・・]
[探偵君が後鳥羽上皇伝説とかを持ち出したりして捜査を混乱させるのは・・・古い体質の私としては
承伏出来かねますが・・・いかがなものか・・・]
- 49 : 光彦 [] 2002/09/13(金) 18:30
私は、捜査員が集まっている中で、さらに続けた。
「要するに、真犯人は、上り列車で三次駅に到着し、列車から降りたが、
改札口には行かずに、跨線橋の階段を昇り、跨線橋の上に立っていた美
也子を絞殺後、すぐに、下り列車に乗り込み、帰って行った。」
その推理を聞いていたベテランの三次署員が尋ねた。
「それでは、真犯人はだれですか?」
「真犯人は、三次には居住してない者で、かつ、捜査状況がよく分かってい
る者です。なぜなら、私が、旅館に泊まっていた客をつきとめたとたんに、
一人は自殺で、一人は交通事故で死んでしまった。これは、真犯人が、口
封じに、二人を殺したのです。そして、その真犯人は、この部屋にいます。
三次に居住してなくて、捜査状況が分かっているものと言ったら、貴方しか
いません。そうです。真犯人は貴方です。」
と、言って、私は、一人の男性を指さした。
- 50 : 竹田松二郎 [] 2002/09/13(金) 19:43
>真犯人は貴方です
甥甥
まさかぁ、オリィを指さしたんじゃ無かろうなっ
オリィの読み通りの「エリート警察官」だろうなっ
三次では、シャツの『襟』に『糸』クズが付いても『エリイト』と言う何て洒落言うナッ
三文小説らしく往生せいっ
- 51 : 光彦 [] 2002/09/14(土) 21:32
指さされたのは、広島から来たエリート警察官だった。
美也子の記憶が戻っては、若い頃の悪事がばらされると思い、三次の駅で待ち合わせる打ち合わせをし、その日、広島駅から、芸備線に乗り込んだ。
三次駅で1番乗り場から、まっすぐ、跨線橋をかけあがり、素早く美也子を絞殺し、2番乗り場に停まっている下りの列車に飛び乗り、そのまま広島へ帰っていった。
これが、この事件の真実である。
以上で、後鳥羽上皇伝説殺人事件は終わり。
- 52 : 竹田松二郎 [] 2002/09/14(土) 21:57
>>51
何とまぁ、チマラニィ結末だよっ
最後にどんでん返しアリュニョカァト期待すてたのにぃ 読み通りかよっ
後鳥羽上皇の立場無いじゃん 島流しに逢うは七百余年もすて アホな物書きに
コケにされるは 立場無いけん 三次市で「後鳥羽上皇杯将棋大会」でも開催すて供養すろっ
- 53 : 竹田松二郎 [] 2002/09/14(土) 22:00
>七百余年もすて
間違ごた。八百余年じゃけん。 まさか 是がオチかよッ 嘘八百余年ナンチャッテ
- 54 : 承久の乱 [] 2002/09/16(月) 12:07
承久の乱から、毛利滅亡へ
1221年5月14日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を出した。
承久の乱の勃発。鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されて後、幕府と対立を深めていた上皇は、北面・西面の武士や在京の御家人を見方に倒幕の兵を挙げた。
時を移さず幕府側は、頼朝の妻・政子の説得で集まった御家人に、北条義時・泰時を大将軍として京の都に攻め上らせた。
そして、早くも6月15日には、帰趨が決する。
捕らえられた後鳥羽上皇は、隠岐の島に流された。
その際、後鳥羽上皇の奪回を恐れて、偽者とは別ルートで、本者は備後の国(広島県東部)を通って、隠岐まで流されたというのが、「後鳥羽上皇伝説」である。
- 55 : 名無しさん [] 2002/09/16(月) 19:16
>隠岐まで流されたというのが、「後鳥羽上皇伝説」である。
隠岐の島でどうなったの
- 56 : 風変わりな人 [] 2002/09/18(水) 17:09
>隠岐まで流されたというのが、「後鳥羽上皇伝説」である。
隠岐の島だから
オキザリにされたとか・・・
- 57 : お〜い・・郷土史研究家・・・と呼んでみる [] 2002/09/20(金) 00:26
寝たのかな?
最近研究止めたのかな?
- 58 : 松田 [] 2002/09/20(金) 17:46
後鳥羽上皇が蜂起し、その結果、幕府側の勝利、上皇側の完全な敗北と言うことになった。だが、幕府としては、その後、将軍を京から呼んで、体裁を繕うとしても(宮将軍)、幕府の権力を誰が維持していくか問題が起こってきた。
そして、鎌倉時代を通じて、歴史の表舞台に常に登場していたのは、執権職にあった北条氏である。北条氏は、北条氏の内部から有能な人物を輩出すると同時に、外部に対しては、常に有力御家人を潰していくことで幕府を維持していく。
歴史の陰に下った毛利氏
その大きな、時代の波に乗り切れなかったのが、実は毛利氏なのであった。
源頼朝の功臣であった大江広元は毛利荘を受け、その子の季光が、毛利を名乗る。
ところが、・・・・。
- 59 : 困ったやつら [] 2002/09/21(土) 06:45
>ところが、・・・・。
何時になったら、毛利の家臣の松田が出てきよるんよ
- 60 : 松田 [] 2002/09/21(土) 14:20
忙しいけど、・・・
ちょっと、寄り道。
皆さん、NHKの大河ドラマ(日曜8時)を見てますか?
次の問題に答えられる人は、かなりの歴史通。
(問題3)
今年「年家とまつ」で、「毛利」ながつく武将が2度出ましたが、毛利○○で、その人物は、どの場面で出てきたでしょう。
2度とも、歴史的に有名な場面です。
(問題4)
おさがわせ和泉元弥が主演した昨年の大河ドラマ「北条時宗」に、「毛利季光」が登場しています。
季光と時宗の間柄は何でしょう? また、季光の最期はどうなったでしょう?
- 61 : 困ったやつら [] 2002/09/21(土) 15:21
>見てますか?
見た事無いけん
>季光と時宗の間柄は何でしょう?
モーホ
>また、季光の最期はどうなったでしょう?
皆、最期は死によるけん
- 62 : 困ったやつら [] 2002/09/21(土) 15:23
18000ゲットー何かくれるかな
- 63 : 松田 [] 2002/09/21(土) 23:05
>「年家とまつ」
じゃない。利家です。見たことなくても、想像だけで、当たりますよ。
織田信長にまつわる2つの事件(いくさも含む)と、言えば、簡単です。
でも、見たことないんなら、名前だけは言わないと分からないよね。
織田信長の家臣に「毛利新助」という武将がいました。
その武将は、「利家とまつ」では、信長にかかわった重要な事件で2度登場しました。
最期は、だれも死にますけど、その死に方がどうだったか?という問題ですよ。
季光には、娘がいたんですよ。その娘が、重大な婚礼を控えているのに、父の季光は、娘の相手に・・・・。
- 64 : 「何か書かれたのか」って [] 2002/09/22(日) 07:47
>その死に方がどうだったか?
要するに、心臓が止まったのだろ
>娘の相手に・・・・。
ビックリしたぁ 娘に・・・・。なら大変だぁ。
- 65 : 光彦 [] 2002/09/22(日) 12:54
探偵の私が推理しましょう。
信長にまつわる二つの事件とは、「桶狭間の戦」と「本能寺の変」ですよ。
桶狭間の戦いで、今川義元の首を獲ったのは、毛利新助でしょう。
そして、その新助は、本能寺で信長もろとも死んでいく。
実は、大河ドラマ見てるから、答えは、簡単ですけど。
北条時宗の父は、毛利家と手を結ぶために、季光の娘をもらったのですよ。
ところが、季光は、他の御家人に誘われて、北条氏を裏切ったのです。
つまり、時宗の母は、毛利の娘なんですね。
- 66 : 暇な暇な暇な人 [] 2002/09/22(日) 13:24
>時宗の母は、毛利の娘なんですね
ドチテ そんな事がわかるの 時宗は季光の娘が産んだにしても父親は推定デスワナ
男はネェ“多分この子は俺の子ダナ”と思いながら生きとるけん
- 67 : 光彦 [] 2002/09/23(月) 20:14
貴方の地方では、どの放送局わかりませんが、・・・
今日(23日) 月曜ミステリー劇場
浅井光彦シリーズ17作「鬼首殺人事件」が、21時から放映されます。
原作者は、もちろん、内田康夫先生です。
- 68 : 名無しさん [] 2002/09/23(月) 23:14
>浅井光彦シリーズ
浅見光彦なら放映されましたけど・・・・・・
- 69 : 光彦 [] 2002/09/24(火) 06:43
あらら、自分の名前を間違えるなんて。
これは、平家の落人の亡霊か、兵の亡霊の仕業か、・・・・・・。
- 70 : 名無しさん [] 2002/09/24(火) 10:09
>69: 名前:光彦
単なるボケなのではないでしょうか
- 71 : 松田 [] 2002/09/26(木) 06:56
毛利季光(ドラマでは高橋英樹)が裏切ったのは、時宗の父親にあたる北条時頼(渡辺謙)でした。
ドラマでは、毛利との娘(浅野温子)の婚礼をあげるまえに、乱に加担し、結局は一族もろとも、自害して果てています。
季光は、この時、すでに新潟の一地方と、安芸の吉田は授けられていたらしいです。
反乱が鎮圧されると、当然、敗者側の息子なども死罪になり、「お家断絶」は、しかたないところですが、北条時頼は毛利の娘とも結婚し(子どもができて、時 宗となる)ますし、また、季光の幼少のこどもは、乱が起きたとき、新潟におり、難を逃れ、また、時頼より処罰は許されたようです。
通常であれば、この時点で「毛利家」は、歴史のもくずに消え去るところが、なんとかつなぎとめたわけです。
結局は、毛利氏は新潟より、安芸吉田のに移ってきて、地頭職として土着し、結局は戦国時代の元就の登場を待つことになります。
- 72 : 名無しさん [] 2002/09/26(木) 08:19
毛利の家臣、松田某の役は「ごんさん」がやるのですか
- 73 : 松田 [] 2002/09/26(木) 21:03
さてさて、前置きが長くなりましたが、次回から「松田藤十郎物語」が始まります。
藤十郎が活躍するのは、毛利元就が躍進を遂げる前の戦国時代備後の国・高杉村。
鎌倉期に、いったんは滅亡の危機を脱した毛利家。雄伏300年後に安芸国統一に乗り出す。
その躍進のきっかけをつくる若武者が、戦国時代のまっただなか、吉田郡山城を訪ねる。
その若武者の名は藤十郎。祖は相模の国・松田荘。・・・・・・・・・。
- 74 : 名無しさん [] 2002/09/26(木) 23:43
>「松田藤十郎物語」
歌舞伎の名優「坂田藤十郎」に似たいい男かね
ごんさんから想像すると・・・・・
- 75 : ふむふむ [] 2002/09/27(金) 15:38
>祖は相模の国・松田荘。・・・・・・・・・。
「ごん家」の ン百年の家系図キボンヌ
松田藤十郎ー松田某−松田某ー・・・−・・・−・・・〜・・・〜・・・
・・・−・・・−・・・−・・・〜・・・−・・・−・・・〜・・・〜松田ごん・・・|
- 76 : 藤次郎 [] 2002/09/27(金) 20:32
松田藤十郎の弟が高杉松田初代で、その17代目がごんだと推定しています。
残念ながら、各代の具体的な名前は不明です。過去帳がある寺が火災にあって、消失。
松田家の墓からは、具体名が読みとれません。残念ですが。
なお、藤十郎については、尼子氏来訪のおり、毛利家に仕え、力自慢を披露したこと。
最初の居宅が、廻神(高杉城とは目と鼻の先)であったこと。
尼子の合戦で戦死したこと。
藤十郎の母が、息子の戦死の際に、毛利隆元から、書状をいただいたこと。などの記録が残っています。
- 77 : 家系図研究家 [] 2002/09/27(金) 22:36
松田藤十郎の弟・藤次郎ー松田王右衛門ー松田飛之介ー松田龍馬ー
松田角之進ー松田金治郎ー松田銀之丞ー松田桂太郎ー松田右香ー
松田二歩ー松田横歩鳥ー松田端角中飛車ー松田平手造酒ー松田千日手
ー松田持将棋ー松田権之父ー【ごん】 と推定すますた。
>力自慢を披露したこと
ごん豪邸の前庭の巨岩を片手で持ち上げたのかな
- 78 : 竹田松二郎 [] 2002/09/27(金) 22:48
>その17代目がごんだと推定しています
俺んち3代目だぞ。
辰蔵ー弥一郎ー《俺》
- 79 : 藤次郎 [] 2002/09/27(金) 23:28
>力自慢を披露
私の兄が、尼子の使者が郡山城に来たとき、元就に呼ばれて、余興で庭に出て、庭に生えている大木を素手で引き抜いたそうです。
それを見た尼子の使者は、帰って「元就には恐るべき家臣がいる」と報告して、それを聞いた尼子は、郡山城は攻めるのをあきらめたということでした。
- 80 : 尼子の使者の末裔 [] 2002/09/28(土) 14:48
朝起きて見ると、高杉町周辺の庭木が、引き抜かれていたら
【ハニーンは松田家の十七代目】と親から聞いております。
- 81 : 藤次郎 [] 2002/09/28(土) 20:55
第1話 尼子攻め
高杉城城主の所替えを前にして、元廻神城主藤次郎は「儂と元就殿との出会いはこうだった」と息子の王右衛門に語り始めた。
「大内殿の指図で、元就殿は尼子攻めにしたがった。元就殿と儂の兄である藤十郎も初めからあまり気乗りはしなかった。
大内の若殿では頼りないし、出雲の攻略は寄り道が多く、なかなか進まなかった。
だんだんと不安が増してきた。
月山富田城を前にして、父と儂は先鋒隊として向こう岸に渡り、吉川の後詰めとして城の真下に陣を敷いていた。
その時だった。あの吉川が裏切ったのは!
尼子と内通していた吉川は城を攻めると見せかけて、城門を開かせ、城の中に駆け込み、さらに尼子の兵といっしょになり、逆に儂たちに襲いかかって来た。矢が幾つも陣中に突き刺さった。毛利本陣まで退却しようとするも、川に阻まれて思うように動きがとれない。
儂は死を覚悟した。」
- 82 : 吉川の末裔 [] 2002/09/28(土) 23:24
>あの吉川が裏切ったのは!
ゴメナサィ ゴメナサィ 24デRデ アナウメ スマスカラ ホントニゴメナサィ
- 83 : 竹田松二郎 [] 2002/09/28(土) 23:54
「松田藤十郎物語」は面白い。
この前の「後鳥羽上皇伝説」何か全然つまらんだ。結末が読める物はダメじゃけん。
多少の口伝もあっても、こりゃ楽しめる。十七代まで書いてくれ。
俺んちなんざぁ、初代・辰蔵は日露戦争で大砲弾に当たり戦死、骨すら無い。
二代・弥一郎は養子で俺の母が嫁に来たから、辰蔵と俺とは血縁が無い。
つまり、戦死して骨すら無いし血縁も無い祖父と、どん百姓の六男・弥一郎という馬の骨の
長男が俺ょ。家系図何ざぁ書けるもんかよっ。
「ごん家十七代」想像逞しく「歴史紀行」してくれ。
毛利の勇将の末裔が何で「レーティングgon」なのか、俺には理解出来ん。
- 84 : 藤次郎 [] 2002/09/30(月) 05:35
その2
「その時だった。元就殿が川の中洲まで出て来て、儂たちに手招きをしている。
尼子兵は元就殿を討とうと盛んに矢を射掛ける。
元就殿は儂たちのために時間稼ぎをしていてくれたのだ。
儂たちはその隙に対岸まで渡ることができた。
儂たちを見捨てずに待っていてくれた元就殿に感激し、どんなことがあっても元就殿を儂たち兄弟で助けると誓ったのだ。」
と、藤次郎は息子に語って聞かせた。
- 85 : おおっ !!何と言う忠誠心 [] 2002/09/30(月) 07:45
麗しきかな藤十郎・藤次郎の兄弟愛 !!
しかしなぁ、「裏切った吉川」は何という名前じゃ
記憶が定かで無いがなぁ、吉川元春なら毛利元就の次男だろっ、吉川家に養子に行ったのでは ??
元就の三男が、小早川隆景じゃ無かったかな ??
- 86 : 王右衛門 [] 2002/09/30(月) 22:18
今回の登場人物を紹介しておきます。
吉川は憎たらしい奴なので、名前など覚えておりません。出所は山県郡です。裏切り行為をする一方で、山県を離れたので、元就様が吉川家を転覆させ、次男の 元春を送ってきたのです。ちなみに、元就様の奥さんは吉川家から嫁いでいますので、元春様から見れば、母親の実家に養子に入ったわけです。
後に登場します広家は、元春の次男です。広家様は、関ヶ原の戦いの後に、毛利家の危機を救います。お楽しみに。ちなみに、明治維新の山県有朋とは、この山県にルーツがあります。
全く余談ですが、子孫のごんが山県郡の近くで将棋大会を開いたら、たったの4人しか集まらなかったとぼやいていました。
次に小早川家ですが、桐谷六段の故郷竹原の豪族でしたが、お家の内紛で毛利の三男隆景殿が来られてお家の統一を図られました。小早川家の姫君と結婚されま したが、子どもさんができませんでした。後に登場する、小早川秀秋は実子ではありません。この方は、秀吉殿が毛利家に養子を押しつけてきたときに、隆景殿 が機転を効かして、養子にもらったわけですから、隆景殿も陰で毛利家を救った方ということになりますか。
- 87 : おおっ !!本格的になって来たぞ [] 2002/10/01(火) 04:35
読み応えタップリ
>全く余談ですが、
子孫の【ごん】は四段じゃろ、ごん豪邸の和室に「四段の免状」あったぞ
>子孫のごんが山県郡の近くで将棋大会を開いたら、たったの4人しか集まらなかったとぼやいていました。
これぞ、「し損じた」と言うけん
>桐谷六段の故郷竹原の豪族でしたが、お家の内紛で
内紛の原因は、もしかして知将米長氏が一枚噛んでいたとか・・・例えば、美女絡みとか・・・
続編 待望
- 88 : 王右衛門 [] 2002/10/01(火) 07:34
小早川家で言い忘れましたが、隆景は新しく「三原」へ城をつくり、現在の三原市の発展の礎をつくりました。
三原で8月にある「やっさ祭り」は、隆景をたたえるために起こった祭りです。
小早川家の内紛については、詳しいことは分かりませんが、当主の方が、目が不自由なかたで、いくさの先頭に立つのもむずかしく、家臣の統率がむずかしかったようです。
元就殿は、元春殿より年少の隆景殿を、先に養子に出しています。かわいい子は旅をさせろ、ですかね。
- 89 : 王右衛門 [] 2002/10/02(水) 05:49
その3 富田月山城(島根県広瀬町)撤退
月山城での尼子氏の反撃はすさまじく、元就殿の機転で儂たちはいったんは危機を脱したが、それからが苦難の始まりだった。
大内の若殿は、殿(しんがり)を元就殿に命じたまま、自分は先頭を切って石見に抜け、山口に逃げて行かれた。殿とは、部隊の最後に位置し、命をかけて敵の 追撃をくいとめる役割である。信長殿が浅井家の裏切りから撤兵したときに、殿に秀吉殿を指名したと同じように、殿を任せられる家臣は、大将より信頼が厚い 証拠だとはいえ、あまりにもひどいしうちだった。
出雲から、吉田に帰るには、備後北部から安芸に抜ければ早いのだが、殿を命じられている以上、大内殿の最後尾を追随するしかなく、私たちは、宍道湖と日本海岸の間を抜けて、敵地のまっただなかを、石見の国を目指した。
それは、苦難の連続だった。尼子の追撃を受け、毛利軍はちりじりばらばらになっていった。そして、最大の危機に襲われ、悲しい別れをすることになった。
- 90 : 涙無くしては読めない・・・ [] 2002/10/02(水) 07:45
「gon家十七代」は常に割が合わない役目引き受けとるなぁ。
処で、この「あまりにもひどいしうちだった大内の若殿」はキリシタン大名・豊後の大名大友宗麟とは
血縁無いのかね、うろ覚えじゃが、大内と大友宗麟は何かの繋がりあったんじゃないかなぁ。
- 91 : 王右衛門 [] 2002/10/06(日) 05:40
その4 永遠の別れ
元就隊は、尼子の追撃を受けながら、ちりぢりばらばらになりながら、石見の国に入った。そこで、元就殿は、部隊を分ける決断をする。
長男の隆元殿と分かれて、備後から安芸に帰らせ、もしかの時には、息子だけでも助かるように、と言うのだ。
儂たちも、別れた。儂は、隆元殿と備後へ、そして、藤十郎殿は元就殿へつき、石見の国で敵を引きつけた。元就隊には、すぐ近くの渡辺殿(現三次市向江田)がいたので、心強かったが、兄や元就殿が心配だった。
そして、案の定、兄とはこれが最期の別れとなってしまた。・・・・。
- 92 : (×_×) エ〜ン涙が止まらない [] 2002/10/06(日) 10:50
>兄とはこれが最期の別れとなってしまた。・・・・。
後の毛利家の栄華は「ごん家の藤十郎殿」の尊い命の歴史があったんだねぇ(×_×) エ〜ン
まぁ、それに比べりゃ、十七代目なんか、忙しくても身銭切っても、命迄失う事無いけん我慢ステクレ
何か「困ったな」な有る時は《2階の住人》が助けてくれるよってにぃ
体は御先祖様に似てドデカイから1日3時間も寝れば大丈夫 !!
しかしなぁ、心配な事一つ有る【近所の庭木引き抜くなっ】すぐ三次警察から逮捕に来るぞっ
藤十郎殿の剛力は遺伝すとるけんにぃ
>私の兄が、尼子の使者が郡山城に来たとき、元就に呼ばれて、余興で庭に出て、
>庭に生えている大木を素手で引き抜いたそうです。
- 93 : 質問しますけど・・・ [] 2002/10/06(日) 16:34
NHKで「大河ドラマ」として「毛利元就」が放映されたのですか?
私は見ておりませんので、お聞かせ下さい。
もし放映されたのでしたら、松田藤十郎殿・松田藤次郎殿はドラマに出ていらしたのですか?
もしかして、松田竹二郎さんもエキストラとして出ておいでましたか?
ビデオがあれば借りて見たいと存じます。
- 94 : 王右衛門 [] 2002/10/06(日) 16:38
その5
兄上の最期は、壮絶だったと聞いている。
数がわずかになった元就軍に容赦なく、尼子の兵が襲いかかる。
死を覚悟した元就殿へ、渡辺殿が進言する。
「私が、元就殿の身代わりになります。元就殿の鎧と兜をいただきたい。」
渡辺殿は、父親の「裏切りの汚名」を晴らすために、命を投げ出したのである。
元就殿に化けた渡辺殿と兄上は、わずかな家臣を連れて、元就殿から離れた。・・・。
そして、半月後元就殿は吉田にかろうじて到着した。
- 95 : 涙も枯れてしまいました・・・ [] 2002/10/06(日) 16:54
>元就殿に化けた渡辺殿と兄上は、わずかな家臣を連れて、元就殿から離れた。・・・。
何と、以前、毛利家所有の国宝「雪舟の水墨画」見ました、あれも忠臣「ごん家十七代」の歴史の
証なんですねぇ、でも十七代目は「24と近将の鴨」だと言う人が居ますが・・何か。
- 96 : 竹田松二郎 [] 2002/10/06(日) 17:16
甥甥
@囲碁なら、かなり打つが 将棋は殆ど指さない人
A将棋は指すけど、ヘボな人
B「中国地区」以外の人
C暇なのでアチコチの掲示板見る人
D怪しげな話の好きな人
E歴史が好きな人
こんな人は『歴史紀行』読んでるから真面目に書け!
高杉神社再建の折、「ごん家」の寄進額まで書け!
宮掃除もしとるかな?
- 97 : 松田 [] 2002/10/07(月) 22:24
その6 布野崩れ (1)
さらに、藤次郎は話し続けた。
「兄の死に際して、隆元殿から、母宛に感状が届いた(※1)。そして、再び奮起して元就殿の陣に加わったときのことだ。
渡辺殿のお陰で九死に一生を得て、吉田に帰国された元就殿は翌年、再び危機に襲われる。
尼子の反撃は鋭く、すぐさま備後北部に侵入してきた。
それを阻止しに布野(※2)で対陣したのはいいのじゃが、元就殿は命をも落としかねない失態を演じられた。
布野で尼子の大軍を前に、霧にはばまれて、敵の居所をつかめないでいたところを、尼子の軍と狭い川を挟んで尼子の大軍と鉢合わせ。
右往左往、いたる所で数にまさる尼子軍に討たれ、多数の毛利兵が討ち死にした。」
注※1 毛利隆元から、松田藤十郎の母親宛の書状は現存している。
※2 布野村:広島県北部の島根県境と接する山間の村
- 98 : 松田十七代記 出版すてほすい [] 2002/10/07(月) 22:43
名前:松田だと何となく十七代目想像すて頼りなく見えてなっ
名前:王右衛門の方がえぇぞっ、まぁドッチも『松田』なんだけどさぁ
>注※1 毛利隆元から、松田藤十郎の母親宛の書状は現存している。
こりゃ値打ち物だよっデジカメで撮りウプすてほすい罠
- 99 : 名無しさん [] 2002/10/08(火) 13:59
>松田十七代記 出版すてほすい
高杉松田家の初代は『毛利の勇将・松田藤次郎』
そして十七代目は『レーティング・ごん』
この落差はナイアガラ瀑布か華厳の滝か
興味津々・続編「先約待」
- 100 : 王右衛門 [] 2002/10/08(火) 18:22
その7 布野くずれ(2)
「その時、儂は宍戸(※3)の軍勢の中にいた。兄の死後、高杉の情勢が悪く、宍戸勢に身を寄せていたからだ。
さすが三吉軍は地勢を心得ていた。
儂は元就殿を助けたいが一心で、三吉勢の中で、馬を駆けに駆け、霧の中から尼子本隊に切り入った。
それで形勢は逆転。かろうじて毛利は勝利をものにした。これで儂は元就殿に恩返しができたと思った。
そして、おおきな事件が山口で起こった。京文化にのめり込む大内義隆を陶晴賢が討ったのじゃ。これは儂ら毛利側にとって好機到来だった。」
注※3宍戸:甲田町に本拠地を置いた勢力。元就の兄の代まで、毛利家と好敵手の間柄にあったが、元就が自分の娘を嫁がせ、宍戸との盟友を図った。
尼子の第1次吉田攻めで、志和地まで尼子勢3000名が集結したのに対して、対岸の深瀬に宍戸氏が陣を張り(現国道54号線石見堂バス停付近・三次市と甲田町の堺)、尼子の進撃を食い止めたのはあまりにも有名。
- 101 : 佳境に入ったなアクセス200越えたぞっ [] 2002/10/08(火) 18:40
>三吉軍
こりゃ何と読むのしゃ「さんきち」か「みよし」か
>あまりにも有名
誰も知らんぞぉ〜一部の者だけじゃろ
- 102 : 竹田松二郎 [] 2002/10/08(火) 19:29
>志和地まで尼子勢3000名が集結した
甥甥
この時、志和地のアヒル達はどちらの味方したんじゃ
まさかぁアヒルがオヒルネしとった何て言う洒落通らんぞっ
- 103 : 松田 [] 2002/10/09(水) 06:58
三吉は、「みよし」でしょ。
地名を名にするわけだから、縁起の良い当て字を使う。
三次→三吉氏
高野→多賀野氏
高野町:山碕さんが、指導対局に来てくれた県境の町。
- 104 : 大好評『松田藤十郎物語』はお休みかな? [] 2002/10/09(水) 08:37
>三吉は、「みよし」でしょ。
いやねぇ、この掲示板に寝ても醒めても「将棋」の事しか考えとらんの殆ど1名おるんょ。
そそっかしくてねぇ、卓哉君を「卓也君 」「拓哉君」 香子さんを「京子さん」 片上三段を
「片山三段」 上川香織1級を「川上香織1級」と平気で間違うから、もしや、そのお方の
影響を受けた御仁かと思いましてねぇ。 手貸しました足借らず。
- 105 : アッ !! 又ヤッチョル [] 2002/10/09(水) 08:43
>山碕さんが
山崎隆之五段でしょ。
人名の間違いはイカン
まして郷土のホープ
あんたは強度のタワケ
- 106 : 王右衛門 [] 2002/10/09(水) 23:08
その8 高杉城攻め(1)
1553年、毛利元就は備後北部を制圧するために三次に兵を進めた。備北では最大で最後の動乱の嵐が吹き荒れた。
4月に吉舎に進軍。江田氏の寄国固屋(三次市大田幸町)を攻略し、吉舎和智氏を牽制し北部攻略に向かわせる。
さらに、高(庄原市)に進軍し、尼子を攻め、三吉氏を確実に毛利側に引き入れる。
5月には、元就自身が尼子本隊と激突したが決着はつかず、元就はいったん態勢を立て直すために、三次志和地まで城まで引き上げた。
藤次郎は再び語りだした。
「尼子との合戦で、兄が死んだこともあって、元就殿の息子隆元殿は、母宛におくやみの書状を下された。
布野から帰着して、元就隊は志和地まで陣を下げた。
隆元殿や元春殿は、りっぱな若武者に成長されていた。
廻神を追い払われていた儂たちは、志和地まで後退し、そこで、高杉城攻めや川西旗返城(※4)攻めを夜がふけるまで論議されていた。」
※4川西:三次市三若町
- 107 : 王右衛門 [] 2002/10/10(木) 19:56
その9
この時期のの元就は、まだ、大内方に属しながら、三次地方に地盤強化のため勢力を伸ばしていた。
一方、尼子晴久は、室町幕府より因幡・伯耆など八カ国の守護に任じられ、さらに毛利の支配地の切り取りを画策し、備後に出陣し、毛利軍と度々交戦していた。
そこで、大内義隆を倒し大内家を乗っ取った直後の陶晴賢は、元就を利用して備後を実質的な支配地とするために三次に軍を投入し、侵略に乗り出していた。
まさに、有名な陶対毛利の厳島決戦の2年前である。
そのような状況の中で、7月元就は川西旗返山城に本拠を置く江田氏と、高杉城を本拠とする武田氏に狙いを定めた。
元就は諸将の前でこう言った。
「志和地に長居したが、陶殿の手は借りずに、まず、高杉城を攻め、返す刀で旗返山城も獲る」
- 108 : 王右衛門 [] 2002/10/14(月) 12:34
その10
戦を前に、馬洗川で隔てられた陣山(現向江田町)に陣をしいた元就のもとで軍議が開かれる。
「廻神殿、詳しい状況を説明してくれ」
儂はこう言った。
「高杉城には武田高貞を城主として750名ほどたてこもっております。三重の堀に囲まれてはいますが、城のある丘はさほど高くはないので、攻めるのはたやすいと思われます。」
それを聞いた元就殿は、次男で吉川家を継いだ元春や他の国人に向けて言った。
- 109 : 王右衛門 [] 2002/10/14(月) 13:18
(三次市高杉町付近地図)
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/93.gif
中央の赤マークが入った所が、昔の高杉城。
元就は、当初、馬洗川を隔てた東北側に陣を敷いたが、その地には陶軍を残し、尼子を牽制させ、
合戦時は、現風土記の丘北端辺りに陣を移動し、全体指揮を執った(向かい側の寺辺り)。
東西に走る中央の広域農道は、近年建設されたものだが、赤マーク周辺の小径は、城があったころの地形をそのままに残している。
おおよそ、城の範囲は、小径に囲まれた地域とみなして良い。
- 110 : 王右衛門 [] 2002/10/17(木) 02:14
その11
「儂は、高杉城の東側に陣をはり、そちらえ、武田をひきつける。
そこで、元春。そちは、宍戸殿、平賀殿と高杉城の西側に陣をはり、西より一気に攻めよ。西側は最も高低があるから、手薄になっているはずじゃ。
熊谷殿、国司殿はさらに北よりからの攻めをお願いいたす。」
それに、応えて、陶の近臣江良氏が言う。
「陶軍も加勢いたそうぞ。」
「いやいや、それはご無用じゃ。江良殿は尼子本隊に備えて、陣山の北方で待機しておいてくだされ。」
「そうか、それではご武運を祈る。」
陶軍を、尼子本隊からの防備のためと称し、高杉合戦からはずさせた元就は、高杉城の正面に当たる丘(現風土記の丘北端、浄見寺辺り)に陣取った。
- 111 : 竹田松二郎 [] 2002/10/17(木) 08:22
>高杉合戦からはずさせた元就は、高杉城の正面に当たる丘(現風土記の丘北端、浄見寺辺り)に陣取った。
甥甥
「ここ掘れワンワン」では無いのかな?毛利家の「隠し黄金」出るかもしれんけん
マッタケさんょ、掘って見たらどうかな?立木引っこ抜く程のDNA遺伝しとるけん、夜中に掘れ!
誰も文句言わんけん 毛利元就に命捧げた勇将の末裔じゃけん
- 112 : 光彦・再登場 [] 2002/10/17(木) 18:26
高杉晋作の出自の謎を探れ!
後鳥羽上皇殺人事件を解決した私は、三次を後に、山口へ旅立った。
長州藩の維新の志士には、その出自の地名を姓としている者が多い。
高杉晋作をはじめ、山県有朋、大村益次郎など。また、桂小五郎はなどの例は、吉田在住のときからの地名である。
高杉晋作の場合は、高杉の姓からして、容易に三次市高杉町がルーツと推測できる。
では、この高杉に本拠を置いた武将はだれだったのか、それが謎として残る。
候補は、3氏だ、・・・・・・。松田氏・武田氏・三吉氏。
まず、松田氏。神奈川県足柄郡松田庄に祖がある。松田姓では、宇喜多氏と抗争した備中松田氏が有名。備後松田氏については、毛利元就の代の時期、元就の長 男隆元の近臣として、高杉に隣接した廻神に居宅を構える。しかし、藤十郎が山陰攻めで討ち死にした後の、行方が今一つ不明瞭。
では、その時期に 高杉城を領有していた、備後武田氏は、どうか。しかし、毛利元就が1553年に高杉城の武田氏を攻め滅ぼしたはずであり、立て籠もった者はすべて首級を挙 げたとしているし、たとえ助かったとしても、元就の宿敵とも言える武田氏となれば、なぜ、武田氏が毛利氏の家臣となり、関ヶ原の合戦の後、山口へ移封し得 たのかということが、大きな謎となる。
高杉城攻略後、高杉城に一時的に入った三吉氏も、後に播磨国へ移動した記録が残る程度で、山口に移動したという決定的な証拠はない。
この謎を解くには、とにかく、山口に行くしかない。
- 113 : 王右衛門 [] 2002/10/18(金) 23:07
12話 武田氏、苦渋の選択
話は、元就が高杉城を取り囲む直前に戻る。ところは、高杉城内。
武田高貞は、四人の子どもを呼び集めて言った。
「元就は、高杉城より南方三里の志和地城にいる。狙いは明らかに、旗返城とこの高杉城。尼子からの補給路を断つために、おそらく旗返城の前に高杉城を先に攻略に来るに違いない。
山県から吉川元春、三原から小早川隆景も来るとあっては、もう、江田殿も儂ももつまい。」
「父上、尼子の援軍を請うています。今、しばらくの辛抱です。」
「いや、いや。尼子も陶軍にさえぎられている以上、動けまい。元就は抜け目のない相手じゃ。陶軍をうまく引き込んでおる。」
「それなら、ここに立て籠もるしかありませんぬ。覚悟はできておりまする。」
「いや、待て、待て。高家、広縄の母御は三吉氏と縁戚がある。三吉の娘は元就の側室にもあがっておる。実は、廻神藤次郎殿に、今仲介を頼んでおる。
藤次郎殿に頼めば、三吉殿への渡りはつけてくれるだろう。・・・」
- 114 : 光彦 [] 2002/10/19(土) 18:48
高杉家の出自の謎解き
私は、高速道路を西進し、山口に向かった。
山口県立文書館に高杉晋作家の系譜が残っているという情報を得て、文書館を訪ねてみた。
そして、一挙に、謎は解けた。
高杉家の系譜は、晋作より六代前の高杉小左衛門が、毛利藩に提出したもので、その書類には、系譜の筆頭を「武田某−小四郎」とし、「住於備後国三谷郡高杉邑」とある。
このことから、出自が高杉村であり、元の姓が武田であったことが、分かったのである。
私は、この情報を得て、その日の内に、三次へ舞い戻った。向かったのは、城跡に残る知波夜彦神社。・・・。
- 115 : 竹田松二郎 [] 2002/10/19(土) 23:52
今回の「光彦」は「後鳥羽上皇伝説」の時とは違うなぁ、前回は犯人バレバレの事件じゃったが
史実と伝説では説得力が全然違うけん、おもろい。
- 116 : 王右衛門 [] 2002/10/20(日) 19:29
13話
武田高貞は、自分の息子に諭すように言った。
「やがて、この城は元就に包囲されるだろう。おまえたち二人は、包囲される前に、三吉を頼って落ちのびよ。
三吉なれば、元就も手を出すまいて。」
「父上、そんなこことはできません。」
「父上、兄上といっしょに、この城で戦います。」
「いや、いや。ここで戦って討ち死にすることはたやすいこと。
しかし、裏切りの謗りを受けても、生き延びることは、勇気のいることじゃ。
それをおまえたちに、託そうと言うのじゃ。」
「父上、・・・。」
「分かりました。父上。それでは、私たちは、三吉殿を頼って落ちのびます。」
「父上、兄上のご武運をお祈りします。」
その夜、高杉城から、二人の若者が去った。
そして、いよいよ、高杉城攻略。・・・・。
- 117 : 竹田松二郎 [] 2002/10/20(日) 23:14
甥甥
藤次郎殿は武田高貞の息子二人を助けるのか?
元就から逆心の謗り受けないのかな?
- 118 : 光彦 [] 2002/10/21(月) 19:56
三次に舞い戻った私は、神社をおとずれる。
宮司さんは、岡部と言われる。岡部家は、後の時代に神社の宮司となる。
ただ、神社の台座の銘文に、「武田」の名前が記されていたと言う。
それで、神社のすぐ近くの、武田家を訪問する。
武田家は、江戸時代は、「庄屋」であったという。
武田諒治氏によると、武田家に伝わる系図には、高杉武田家の出自は安芸守護職の武田氏であり、元就に滅ぼされた武田高貞には、貞近、高智、高家、広縄という4人の子どもがあったことが記されている。
これと、神社で見つかった銘文の名前が一致したことで、すべての謎が解けた。
安芸守護武田氏→備後武田(祝)氏→高杉武田氏(庄屋)
→山口・高杉晋作家
- 119 : 王右衛門 [] 2002/10/22(火) 21:45
14話
高杉城の周りは、芋面川をはじめとしてすべての川がせき止められ、城の段丘の周りは泥沼化されていた。
その沼底には、馬の進撃をくい止めようと、無数の竹槍が埋め込まれていた。
元就の合図で、全軍が高杉城に襲いかかる。
その中でも、特に、猛将と呼ばれる吉川元春軍は、竹槍の泥沼をもろともせず、幾騎も駆け渡る。
そして、城の外堀に立てかけた壁に鍵爪をかけて、次々と塀を引きずり倒し、柵を乗り越え、本陣に迫っていく。
元春軍の怒濤の攻撃に、全軍が襲いかかる。
それに比して、さすがの武田軍も、多勢に無勢、次々と討ち取られていく。
高杉城での戦いは、一方的に毛利軍の勝利に終わり、六百余の首を討ち取ったという。
父武田高貞、息子の貞近、高智をはじめとして、武田氏は元就の前に全滅させられた。
- 120 : 武田高貞の末裔 [] 2002/10/23(水) 10:10
>高杉城には武田高貞を城主として750名ほどたてこもっております
>六百余の首を討ち取ったという
差し引き、約150名は
>裏切りの謗りを受けても、生き延びることは、勇気のいることじゃ。
となりました。
- 121 : 光彦 [] 2002/10/23(水) 19:43
750名か、600余か、?・・・・
ははははは、よく読んでおられますね。
いや、実は、作者の方が少し混乱されて、主催者側の発表と、マスコミの発表との違いで、多少の食い違いが、出たと推測します。
私が聞いたところによりますと、立て籠もった「全員」が、首を獲られたそうです。
おそらく、立て籠もった者は全員が殺されたかと。戦国時代のならいですね。
ただ、包囲される前に、高杉城から抜け出た者がいた可能性はありますね。
地理的に見ても、高杉城から廻神の松田館まで、一里もない距離です。
なお、現在は、小学校の名前にも残っています「神杉」とは、高杉と廻神を一字ずつ取って、つけられた地名だそうですよ。
- 122 : 武田松二郎 [] 2002/10/24(木) 01:15
>主催者側の発表と、マスコミの発表との違いで、多少の食い違いが、
>出たと推測します。
甥甥
だから志和地のアヒル逃げるのだ。
子供達を遠足に連れて行っても数かぞえないなにっ!
- 123 : 竹田松二郎 [] 2002/10/24(木) 01:18
>122: 名前:武田松二郎
ずぶんの名前忘れてたぁ
- 124 : 王右衛門 [] 2002/10/24(木) 22:26
15話 旗返城攻め(現三次市三若町)
高杉城攻略後、元就はただちに、川西旗返城に籠城する江田氏の攻略に向かった。
元就は、旗返城に対面した小山に陣を敷いた。
そして、この戦いで活躍したのは、三男の小早川隆景だ。
豪将元春に比べて、智将と呼ばれる隆景は、旗返城の裏手に回って、城内に直に入れる穴を掘り進んだと言う。
この作戦は、まんまと当たり、その年の11月には、旗返城も攻略した。
実は、この城の支配をめぐって、元就と陶の間で対立が起こるのだが、それは後で、述べる。
いずれにしても、川西攻略を機に、山内氏・多賀山氏も毛利方に転じたので、その後、尼子氏は二度と中国山地を越える事はなく、三次での戦いは終結した。
- 125 : 王右衛門 [] 2002/10/25(金) 20:50
16話
勝利の酒を飲みながら、毛利配下の武将で話がはずんだ。
「二つの城を獲ったが、いったい、誰が城主となるんだろうか。」
「城を持つのは、みんなの夢だからな。」
「松田殿は、廻神に復帰したから、そのままだろう。」
「高杉城は平城だから、戦略的にはたいしたことはないから、暫定的に三吉氏が入るんじゃないか」
「そうだな、高杉は三吉氏が順当だろう。」
「旗返城は、備北の拠点だからなあ。」
「元就殿の信頼が厚い児玉殿だろう。」
「そうだな。儂もそう思う。」
ところが、旗返城はそうはならなかった。
元就の備後での勢力拡張を恐れた陶氏が、旗返城に腹心の江良を送り込んできた。
「何、江良が旗返城に入ってくるだと?!」
「この戦い、江良殿は何も働きはなかったではないか」
「それなのに、なぜ?」
「やはり、陶氏は元就殿の力が恐ろしいのであろうよ。」
「しかし、備後に陶氏の腹心がいるとは、元就殿もやりずらいな」
「いやいや、そんなことで、引き下がる元就ではあるまい。」
- 126 : 竹田松二郎 [] 2002/10/25(金) 23:23
>「いやいや、そんなことで、引き下がる元就ではあるまい。」
sonyのテレコで録音してたなっ!
- 127 : 王右衛門 [] 2002/10/26(土) 22:22
第17話 厳島決戦へ
そして、明けて1554年、西の桶狭間と言われる厳島の決戦の前年である。
元就は58歳になったが、いまだに、わずかに安芸・備後の一地方を保持する小大名。
備後に拠点を打ち込まれた屈辱を晴らし、数倍を有する、大内を乗っ取った陶氏にいかに立ち向かっていくか。
大きな決断をする。
四月、大内義隆の義兄・津和野城主吉見政頼が挙兵し、毛利に援軍を請う。
この機に、ついに、元就は陶晴賢と断絶し、挙兵。ただちに、桜尾、草津、仁保島を攻略。
そして、九月、折敷畑の合戦で陶軍の主力と衝突。厳島決戦の前哨戦が始まった。
その、毛利軍の兵の中に、勇猛果敢に戦う若武者がいた。
- 128 : 竹田松二郎 [] 2002/10/27(日) 07:04
>その、毛利軍の兵の中に、勇猛果敢に戦う若武者がいた
おおっ、モノホンgonの先祖かな?
- 129 : 竹田松二郎 [] 2002/10/30(水) 18:55
お〜い王右衛門!
又、余所の掲示板覗いておるんじゃないのかぃ?
- 130 : 王右衛門 [] 2002/10/30(水) 20:28
折敷畑の合戦で陶軍を撃退した元就は、隆元に言った。
「隆元、あの若武者はだれだ?」
「廻神の松田殿が連れてきた者ですが。よくは存じません。」
「こちらへ、呼び寄せよ。」
元就は、その若武者を呼び寄せてねぎらいの言葉をかけた。
「そちの名は何と言う?」
「高杉広縄と申します。」
「高杉とな。高杉と言えば、高杉城で手を焼かせた武田殿の倅か?」
「いかにも。しかし、もはや武田の名は名乗りませぬ。高杉城陥落の前に、三吉殿に拾われましたからには、高杉広縄として、毛利殿に仕えたいと思います。」
「おお、そうか。父の仇である儂に仕えようというのじゃな。」
「いかにも。」
「承知した。」
これは、合戦が一段落した後の話になるが、毛利元就・隆元父子は、三原の沖底より取り寄せた潮土を敷き、高杉にあった神社の社殿を再興したと伝えられる。
その際、三吉氏のとりなしで、広縄が高杉に復帰したのである。
- 131 : 名無しさん [] 2002/11/02(土) 00:08
お〜い王右衛門!
又、余所の掲示板覗いて書き込んでおるんじゃないのかぃ?
- 132 : 光彦 [] 2002/11/03(日) 12:30
今日は、高杉の祭だと聞いたので、三次に来た。そこで、新情報を聞いた。
- 133 : 名無しさん [] 2002/11/03(日) 19:04
>新情報を聞いた。
高杉町の住宅で「庭木引っこ抜き事件」あったんやろっ。
ハニーンは十七代目だっ。
- 134 : 光彦 [] 2002/11/04(月) 10:50
新情報と言うのはですね、高杉城は決して「密室」ではなかったということですよ。
と言うのは、あの時点で、ほんとに武田氏は、高杉の城の中にいたのか?
そういう疑惑なんですねぇ。
あの状況下で、江田氏の本城は、川西旗返城。
高杉城は支城ではなかったはずですよ。
元就が志和地城で、作戦を立てたのは、川西を襲うと見せて、高杉の武田をおびき出し、その隙をねらって、高杉を狙ったのではないか。
策謀の上手な元就ですから、そんな手は簡単に仕組めますね。
そして、高杉城を攻められることを知った武田は、城へ帰還しようとしたが、果たせず、そこで討ち死にしてしまったというのが、私の推理なんですけどね。
- 135 : 名無しさん [] 2002/11/04(月) 14:19
あのなぁ、光彦君!
肝心の「庭木引っこ抜き事件」を解決してかからんとなぁ、この前の「後鳥羽上皇伝説」の
二の舞になるぞっ。ダラダラ引き延ばしてナァ〜ンダァてな事になるのょ。
>元就が志和地城で、作戦を立てたのは
アヒルの存在忘れとるょ
>私の推理なんですけどね
だから、そんな事より「庭木引っこ抜き事件」が先決よっ
ハニーンは@力持ちA夜寝ないで起きてるヤシ
@祖先・松田藤十郎は怪力無双じゃけん、DNA鑑定すりゃバカでかい十七代目しかおらんやろっ
Aこの掲示板とか24の「レーティング掲示板」に午前2時とかに書き込んどるけん、夜中起きとるけん
一刻も早く三次署へ報告しろょ光彦君!
- 136 : 光彦 [] 2002/11/05(火) 21:09
↓武田氏は城の外にいたことを裏付ける証拠品です。
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/115.jpg
標柱には「祝氏」とあるが、これは明らかに武田氏の別名。
この墓の後方に見えるのが、高杉城跡なのだが、おそらく武田氏は川西からの帰還中にこの場で毛利元就に討たれたと推理するのだが、・・・。
いかがなものであろうか。
- 137 : 名無しさん [] 2002/11/06(水) 07:00
>標柱には「祝氏」とあるが
この標柱は「昭和の時代」の建立じゃけん
>いかがなものであろうか
段々「宗男」に似てきたけん
- 138 : 竹田松二郎 [] 2002/11/06(水) 07:21
>この標柱は「昭和の時代」の建立じゃけん
同歩!十七代目が真夜中に、何処ぞから「引っこ抜いて」ここに埋めたんじゃ。H大学の卒論に
間に合わせた「涙ぐましい努力」認めてヤッカァ。
- 139 : 彦光 [] 2002/11/06(水) 16:08
ぁゃcぃ ぁゃcぃ 「庭木引っこ抜き事件」に引き続き「祝氏標柱引っこ抜き事件」勃発かぁ
十七代目はこの2件を「迷宮入り」させる作戦と見た。
「キリ番〜スレ」のR子探索もアヤフヤにした「とくめい」君もカナーリ ぁゃcぃ
- 140 : 光彦 [] 2002/11/13(水) 05:39
高杉紀行
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/121.jpg
私が、高杉を訪ねた、ちょうどその日は、秋祭りが行われていた。
毎年、11月3日には、祭りが行われるそうである。
私の推測では、元就はこの神社の真正面に位置する丘の上に仮の本陣を敷き、攻めたのではないかと推測する。
この城は、平城だから、なかなか守備は困難であったろう。
鳥居の両脇には石垣が残るが、そんなに高くはない。
- 141 : 竹田松二郎 [] 2002/11/17(日) 00:55
お〜い 王右衛門!
最近、光彦ばっかしでオモロウナイゾ〜
出てコ〜ィ
- 142 : 王右衛門 [] 2002/11/17(日) 11:36
厳島の決戦
岡山・高松城の攻防戦
関ヶ原の戦い
と、話は、わんさかあるのだが、あちこち、ある子孫が手を出すものだから、全然、話にならんのだよ。
あっさり、話とすっとばして、一番話したいところかにしようかのう。
- 143 : 王右衛門 [] 2002/11/18(月) 23:49
本能寺の変へ
三次旗返城を攻略後、その城を陶晴賢に奪われたのだが、今振り返ってみれば、それも元就殿の策略だった気がする。」
それに答えて私が言った。
「確かに、そのすぐ後、陶を宮島におびき出して、何倍の兵力を跳ね返しての勝利ですからね。五十九歳からの飛躍とは信じられないですね。
旗返城に入った江良氏をちょうりゃくしたそうですよね。」
「そうよのう。元就殿は策謀にかけては、天才的だからな。」
「その後は、月山冨田城も攻略して、尼子氏を滅ぼし、中国10カ国を制覇された。」
「ずいぶん、話を急ぐようだが、中国地方を制覇された元就殿が死なれて、毛利輝元殿、吉川殿、小早川殿は、備中高松城で、織田信長中国方面軍の豊臣秀吉と激突する。
そのさなかに信長が明智光秀に討たれたのはそちも知っているであろう。
次は、その話じゃ。」
- 144 : 王右衛門 [] 2002/11/20(水) 04:10
岡山・高松城攻防戦
「儂たちが備中・高松城に着いたときは、城はすでに秀吉軍に包囲されていた。
高松城は、毛利輝元殿に属する武将清水宗治殿の城であり、周囲が深い沼地で、極めて周囲からは攻めにくい要害の地であると聞いていた。
小早川殿とともに備中に着いた儂たちは、高松城を見て驚いた。
なんと、秀吉は、高松城の周囲の川をせきとめ、さらには、降り続いた梅雨をも活用して、城を水没させていたのである。
これでは、城に近づくこともできない。
儂たちは、歯ぎしりをした。これでは、高松城を助けることはできない。
そして、運命の六月二日の二日後の四日、安国寺恵瓊氏の仲介で、和平交渉が始まった。
そして、四日の夕刻、儂は陣中に居残っていた。
南の方から何やら人影が近づいて来る。
一瞬、敵かと身構えたが、それは紀州雑賀衆の水軍の使いだった。」
「わかりました。父上、それはひょっとして、明智光秀の密書を持った間者ではなかったのですか。
織田信長を討ったことを毛利に知らせに来たのでしょう。」
- 145 : 竹田松二郎 [] 2002/11/20(水) 09:25
>織田信長を討ったことを毛利に知らせに来たのでしょう
甥甥 又sonyのテレコに録音してたなっ
- 146 : 王右衛門 [] 2002/11/20(水) 21:53
本能寺の変(2)
「しかし、父上、明智からの使者は、毛利と秀吉の陣を見間違って、秀吉の陣に誤って知らせたと聞いていますので、父上の話と辻褄があいませんが、・・・」
「それは、こういうことなのじゃ。秀吉は、後に天下人になるお人じゃ。確かな決断力、実行力など、人並み優れた力量があったことには間違いはないが、まれにみる「幸運」に恵まれたことも見逃せない。」
その幸運の一つが、本能寺の変の知らせを毛利より先に知ったことだった。
それは確かにそうである。実は、後で分かったことだが、秀吉殿は、明智からの使者を捕まえ、本能寺の変を知ったのは、三日の日が終わらぬうちだったと聞いている。
つまり、毛利より一日前に、知った事になる。
しかし、逆に言えば、たった一日しか違わなかった。
通常、和平交渉など、一日で決着がつくはずはない。
一日で、和平交渉を決着させた秀吉殿の決断は賞賛に値するが、それはそれなりに、理由があった。」
「と、おっしゃられますと、・・・。」
「つまりじゃな、高松城を守るのは、もはや無理となり、すでに、和平交渉を毛利側から持ちかけていたのじゃ。
そこに、城主の切腹だけで、毛利については、領地の安堵という望外の好条件。こちら側としては、むしろ和平は望むところであった。
使者が誤って、秀吉の陣に伝えたのも、確かに幸運。さらには、戦況が短時間の交渉で決着できる状況だったことが、それに輪をかけて幸運だったということじゃ。
だが、その幸運を引き寄せ、それを逃さず、確かなものとした秀吉殿の知略と行動力には賞賛に値するがのう。」
- 147 : >>146 竹田松二郎 [] 2002/11/20(水) 22:11
>秀吉殿の知略と行動力には賞賛に値するがのう
するがのう=駿河脳
はは〜ぁん つまり秀吉より 更に上が「駿河の脳味噌」=家康 ってな訳かょ
- 148 : 竹田松二郎 [] 2002/11/21(木) 17:24
お〜い 王右衛門!
光彦は東京へ帰ったかな?
ありゃヘボ探偵ょ 誰にでも分かる事件を尤もらしく解決して見せるなんてさぁ
キザ丸出しょ それに比べりゃ王右衛門は流石sonyのテレコ持っていただけあるわぃなぁ
光彦の奴はデジカメはsonyらすぃけど「高画質」に設定せんから、ボケた写真載せよるけん
>>136 >>140の写真見て皆笑っていたぞっ 王右衛門光彦に伝えとけっ。
- 149 : 王右衛門 [] 2002/11/21(木) 20:21
秀吉の幸運(1)
「それでは、横道にそれるが、儂が思う、天下人となる秀吉殿の本能寺の変での幸運さを挙げてみようと思う。」
「はい、父上」
「まず、天下人になる上で最大の幸運は、何と言っても、織田信長が死んでくれたことじゃ。」
「それは、そうですね。信長殿が死なないと、とてもではないが、天下人にはなりませんね。」
「二つ目は、昨日も言ったことじゃが、毛利より早く本能寺の変を知り得たこと。」
「はい、それは分かります。明智の間者が、陣を間違えさえしなかったら、毛利が黙っておりませんので、岡山で釘付けになっていたでしょうからね。」
「全く、そうじゃ。三つ目の幸運は、高松攻防戦が終盤にかかり、和平交渉が短時間で成立したことじゃ。」
「そうですね。父上の話で、それについても分かりました。」
「四つ目の幸運は、秀吉以外に、京へ帰還できる有力武将がいなかった。」
「それは、私には不勉強でよく分かりません。」
「機会があったら、後ほど話すとしよう。しかし、さらには、二つ目から四つ目の幸運に匹敵するぐらいの大きな幸運がもう一つあったのじゃ。」
「え? この四つ以外にも幸運があったのですか?」
「そうじゃ。これは、わりと見落としがちなことなのじゃがな、・・・。」
- 150 : 竹田松二郎 [] 2002/11/21(木) 23:44
>>149
おおっ 王右衛門 引っ張りも上手いぞぉ
当主の十七代目はカナ〜リ オカスィ ヤシ でなぁ「R」を見ると俄然人が変わる
「お答え1・○○さんは ソーオッシャイマスガ〜 ナガナガ〜ナガナガ〜」
「R○さんは30歳台ニシカ ミエンカッタンョ〜ナガナガ〜ナガナガ〜」
それに比べりゃ 流石ぁ二代目!いよっカキコお上手!
王右衛門おまいさんに任せたょ 光彦何か呼ぶなよっ
- 151 : 王右衛門 [] 2002/11/22(金) 19:23
秀吉の幸運(2)
「五つ目の幸運を話をする前に、四つ目の幸運のところで言った、有力武将の確認をしておこう。」
「はい。」
「本 能寺の変の時点での全国の情勢はこうだった。まず、中国地区では岡山で秀吉と毛利が対決。しかし、この対決は、最終盤にさしかかっていた。信長の家臣団で 秀吉とともに有力だった柴田勝家は前田利家らとともに、北陸で上杉と対峙しており、京へ帰るどころではなかった。では、関東攻略中の滝川一益はどうであっ たか。実は、滝川が最も不運であった。と、言うのは、滝川の場合、関東攻略に着手したばかりでの、本能寺の変。信長の後ろ盾があってこその関東攻略だった が、信長を失った時点で、逆襲を受け、壊滅的な敗北を屈している。」
「なるほど、とすれば、秀吉殿も間者が、先に毛利に伝えれば、前には毛利、後ろには明智と挟み撃ちにあう可能性もあったということですね。」
「そうじゃ、幸運と不運は背中合わせ、秀吉殿の場合は、うまく好機をつかんだお人じゃ。じゃが、あの、時点では、客観的にはさらに滝川より不運な武将が一人いた。また、逆に、秀吉殿よりさらに幸運な武将が一人いた。そちは、その二人の武将を言い当てることができるかの。」
「父上、ずるいですよ。五つ目の幸運をしゃべらないのに、さらに、難問を出すなんて。」
「つべこべ言わずに、当ててみろ。手助けをしてやる。不運に見合われたのは、誰もが知る有名なお人じゃ。明晩まで、考えておけ。もう一人は、よほどの通でないと、当てられないだろうから、これは儂から話してやろう。」
「宿題ですか、・・・。」
- 152 : 竹田松二郎 [] 2002/11/23(土) 10:10
>つべこべ言わずに、当ててみろ
甥甥
あのなぁ、おまいさんはsonyのテレコに録音しとるから、そう言えるがなぁ
何百年前の事覚えとるかよっ。
まぁ後々の結論は「三百年も続いた徳川の読みの深さよ」、『秀吉の天下は短い』これが
家康の読みょ。秀吉は『信長討たれて、ようやく儂の天下だ!』これが本音。
他の武将は「風見鶏」「内股膏薬」「洞ヶ峠決め込む」、だれ一人家康に闘い挑む力無かった。
- 153 : 王右衛門 [] 2002/11/23(土) 19:49
「父上、分かりました。竹田殿(>>152)の言うとおり、そのお一方は徳川家康殿でしょう。でも、父上、家康殿は後に天下も獲れるお方なのに、「不運な武将」ではないでしょう。何かの、間違いでは?」
「本能寺の変の時、客観的に見て、もっとも命に危険があったのは、実は徳川家康殿であったのじゃ。」
「ええ? それはどうして?」
「そ れはな、家康殿は本能寺の変の時、物見遊山で、堺見物をしていた。ところが、信長を討った、明智は当然、家康を討とうと手を回してくる。家康は、山中をさ まよい、三河を目指して、命辛々に戻った。しかも、態勢を整えて、明智を討とうと三河から出発したときには、時すでに遅し。秀吉殿に先手を打たれたのだ よ。」
「へえ、そうですか。本能寺の変は家康殿にとっても、危機だったわけですね。」
「そうなのじゃ、人間だれしも、危機に際して、最善を尽くそうと努力はするはずじゃ。しかし、問題は、刻々と状況が変化する中で、正確な判断力と、確かな実行力が備わっているかじゃな。」
「そうですね。」
「と にかく、秀吉と家康は、結果的には、最善と思える道を歩んだ。秀吉は幸運と同時に本人の力量で勝利を勝ち取った。家康は、状況が最も不運だった。もし、本 能寺の変の時に、三河へいさえすれば、京へなんらせぎることもなく、兵を進撃できたはずが、逆に堺にいたことで、命の危険すらあった。しかし、彼は彼の力 量で危機を乗り切った。それが、後の天下獲りへの道を確かなものにしたのじゃ。」
「なるほど、よく分かりました。最も不運だったのは、家康殿だったが、家康殿の才覚で乗り切り、次への道を残した。では、父上、秀吉殿より幸運だった者がいたと仰せになりましたが、その方のお名前は誰なのですか?」
「それはな、羽柴の名前に関係ある人物じゃが、それは、明日にしよう。」
「ずるい、父上、また、日延ばしにして、・・・・。」
- 154 : 竹田松二郎 [] 2002/11/24(日) 00:43
>羽柴の名前に関係ある人物じゃが
甥おい
おまいさん、まさかぁ「越前の守」が「一膳飯」だった!何て寒い洒落考えとるんじゃ無ぇえだろうなっ
- 155 : 王右衛門 [] 2002/11/24(日) 21:19
秀吉の幸運(3)
「それでは、本能寺に変に際して、客観的に見て、最も幸運だったと思われる武将を言う。」
「はい、父上。」
「それは、丹羽長秀だ。」
「丹羽殿ですか?」
「そうだ、丹羽殿は、変の時に、四国遠征に出撃する直前で、難波にいた。つまり、丹羽は、変の報せを聞いたとき、四国に行く予定の兵を、そのまま京の明智を討つように進めさえすれば良かったのじゃ。」
「ええ、そうなんですか。」
「敵と交戦中の柴田勝家・豊臣秀吉・滝川一益や、兵を伴っていない徳川家康に比べれば、無傷の軍勢を持つという最も絶好の態勢で、しかも有力武将のうちでは最も京に近い位置にいた。」
「それなのに、なぜ、丹羽殿は京を目指さなかったのでしょう。」
「自 分の軍勢だけでは勝てないと思ったのだろうよ。まあ、そう判断したことが、丹羽の力量のない所じゃ。結局は、その判断の誤りが、幸運をみすみす逃してしま うことになる。まあ、要するに運だけでは、天下人にはなれぬ。頂点を極めるには、やはり、本人の力量がないとダメじゃたわけだ。」
「そうでしたか。変の時に、最も幸運だったのは、丹羽殿だけど、丹羽殿には運を生かす行動がなかったということですね。」
「全くそうじゃ。丹羽には、正確な判断と、兵をまとめきる力量と、自分の目指す方向に邁進する行動力に欠けていたということじゃな。」
「はい。よく分かりました。それでは、先日おっしゃいました、秀吉殿にとっての五つ目の幸運とは何でしょう。まさか、丹羽殿がぼんくらだったというのが、幸運だったとおっしゃるのではないですよね。」
「当たり前じゃ。そんなことではない。五つ目の幸運の話は明日じゃ。」
- 156 : 王右衛門 [] 2002/11/25(月) 22:53
秀吉の幸運(4)
「秀吉の幸運の五つ目は、天下を狙う者にとっては、誰にとっても共通だった。」
「と、言いますと。」
「本能寺の変が起こったときに、実は、信長の身内で、もう一人重要な人物が、京にいた。」
「その人物は、どなたですか?」
「信長の嫡男、織田信忠だ。」
「織田信忠?」
「そ うじゃ。本能寺の変では、信長が自害したことばかりに目がいき、実は信長の嫡男である織田信忠のことが、軽視されすぎている。まあ、しかし、信長という人 物の存在が、あまりにも大きいので、信忠のことは、歴史から忘れがちであることは、しかたない。しかし、それにしても変の時の、信忠の行動一つで、歴史が 大いに変わった可能性は大いにあるのじゃ。」
「織田信忠の行動が、秀吉殿にとって、幸運だったと言うことですか?」
「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 157 : tabibito [] 2002/11/26(火) 08:19
>「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 158 : tabibito [] 2002/11/26(火) 08:19
>「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 159 : tabibito [] 2002/11/26(火) 08:19
>「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 160 : tabibito [] 2002/11/26(火) 08:19
>「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 161 : 竹田松二郎 [] 2002/11/26(火) 08:27
甥甥
>>157->>160 こりゃ何じゃ
おまいさん、タコ嫌いだったんじゃ無いのかぃ?
タコは「ネチネチ絡んでしつこいからなぁ」それに言葉遣いも悪いし、直ぐ墨ぶっかける
「いか」の方がえぇ、「いかにも、そうじゃ。・・・・。」
- 162 : 王右衛門 [] 2002/11/27(水) 07:35
「父上、目を覚まして、話をしてください。」
「儂はねむたいのだ、むにゃむにゃ、・・・」
「父上、信長といっしょに京にいた、織田信忠殿は、どうなったのですか? 明智に討ち取られてしまったのですか?」
「自分で、調べろ、ぐーぐー。」
- 163 : 事務局 [] 2002/11/28(木) 06:56
秀吉の幸運(5)
「信長と信忠は、京へいたというのを聞いて、勘違いする者もおるが、信忠は決して本能寺で父親と同宿していたのではない。しかも、信忠の場合、三千人程度の親衛隊は持っていたはずだし、すでに嫡男もいる立派な大人じゃ。」
「信忠のも嫡男と言いますと、もう信長殿には、孫がいたのですか?」
「そうじゃ、吉法師という名の嫡男がいた。」
「信忠殿は、信長殿は、明智殿の取り巻かれたのではなかったのですか?」
「いや、違う。信長殿が襲われたとき、信忠はまだ自由に動ける状態であった。しかし、なまじっか、三千人程度の兵力があったために、父親が討たれたのを聞いてもなおかつ、明智の大軍とまともに対峙してしまったのじゃ。」
「と言うことは、逃げようと思えば逃げられたということですか?」
- 164 : 竹田松二郎 [] 2002/11/28(木) 21:06
甥甥
何で 事務局が戦国乱世に出て来るんじゃ
sonyのテレコは許すけど 事務局はダメじゃ
- 165 : 王右衛門 [] 2002/11/29(金) 06:21
「そうじゃな、信忠は京の明覚寺を宿所としていたから、光秀は信長を討つのが当面の目標だったから、明覚時は包囲してないのだ。その証拠に、信忠は変の報せを受けて、明覚寺を出ているのだ。」
「それなのに、どうして逃げなかったのですか?」
「そ れは、お前、信忠の気持ちになって考えてみろ。実父が光秀に襲われているんじゃぞ。当然、助け出そうとか、考えるだろうし、例え、すでに父親が死んだだろ うと分かっても、頭が混乱して、冷静に判断ができなかっただろうし、「逃げることは恥だ」と考えたのかも知れんしな。3000の兵とともに、京で明智と 戦っていれば、いつかは援軍がとも考えたかもしれんしな。」
「そうですか、冷静に判断ができなっかった可能性が強いですね、・・・。」
- 166 : 王右衛門 [] 2002/11/29(金) 21:30
「でも、信長は朝倉攻めの時に、浅井の裏切りを察知するやいなや、秀吉に殿(しんがり)を押しつけ、さっさと逃げ帰ってしまった。確かに、実父を失った悲しみで冷静な判断が難しかったとはいえ、京へ居残ったのは、完全な判断間違いだった。指揮官としては、失格だよな。」
「さっさと、安土に帰れば良かったわけですね。」
「まあな。しかし、安土よりさらに都合の良い場所があった。それは、大坂じゃ。大坂に行けば、丹羽長秀や信忠の弟の四国征伐軍がいた。」
「なるほど。しかも、大坂まで行けば、秀吉殿もすぐにやって来ますし。」
「お前はたわけか、こんな緊迫した場面で秀吉のことなど、考えつくか。しかし、いずれにしても、京から一刻も早く引き払う必要はあったな。秀吉にとっては、ここで信忠が信長殿といっしょに死んでくれたのは、後に天下を目指す者としては、幸運の出来事であったのじゃ。」
- 167 : 王右衛門 [] 2002/12/01(日) 05:01
「今 日はちょっと長話になるかもしれんから読み飛ばしてくれてもかまわんが、歴史というものは、過ぎ去ってしまえば、答えが出ているものじゃ。秀吉は、明智を 素早く討つことで、織田家中で発言権を増し、後に柴田勝家を破ることで、後の天下獲りに繋がった。今日はそれを一つの答えとして、各の武将のとった行動を 分析してみよう。」
「はい、父上、かなり難しそうですね。」
「では、まず、秀吉は最終盤にさしかかった毛利と和睦し、直ちに兵をまとめ、京へうって返し、明智を討った。これは、歴史的事実だから、そのままで良いであろう。ほtんど失策はなしに、最善の道を歩んだ。本人の力量と幸運が合わさって、天下獲りに大きく近づいた。」
「はい、そうです。」
「家康は、堺にいて、身の危険もあったのだが、最善を尽くして、三河へ帰り、兵をまとめ、明智を討とうとしたが、秀吉に先をこされた。ということは、家康もほぼ最善を尽くしたが、とにかく今回は運が悪かった。」
「そうですね、運の悪さを力量で凌ぎ、次に繋げた。」
「滝 川一益は、最も、不運。関東に本拠を持たないまま、信長を失うことで、なし崩しの態勢になった。一益としては、ここは一本勝負のつもりで、関東を放棄し て、すべて引き上げ、京の明智を討ちに帰ってはどうか。それでも、秀吉にはかなわないだろうが、関東ですべてを失うより、自力の兵力を温存できるから、そ の方が、良かったかもしれん。もし、信長や秀吉が一益の立場だとそうしたかも知れん。」
「それにしても、運が悪すぎましたね。」
「丹羽長秀は、アホじゃな。みすみす、幸運を取り逃がした。説明不要じゃ。」
「はい、そうです。」
「柴田勝家や前田利家の評価は、ちょっと難しい。上杉との戦いを放棄して、京へ帰還するわけにもいかんしな。まあ、とにかく、変後の処置がまずかった。」
「そうですね」
「最後に、信長の嫡男、信忠だが、実父が殺される人生最悪の出来事に襲われたわけだが、まだ、ツキは残っていた。明智は宿所の明覚寺を取り囲んではいなかった。まだ、信忠は自分で不運を払いのけられる状況にあったのじゃ。・・・。」
「父上、その後は、私に言わせて下さい。信忠殿は、京から脱出し、大坂に向かい、丹羽殿と合流し、さらには、秀吉殿と連絡をとった上で、秀吉殿を合流させ、三隊で明智を討てば良かった。」
「そう、正解じゃ。大坂に逃げ出すことさえ、思いつけば、後は、秀吉に任せておけば、自分の天下人としての将来はゆるぎのないものであったはずじゃな。」
「父子ともにいっしょに死んでくれて、秀吉にとっては、幸運がいくつも重なったということですね。」
「そうじゃな、信忠が、きちんとした力量のある武将に育っていたなら、秀吉の天下とりはなかったよな。とにかく、秀吉は初めから天下を狙ったいたかも疑わしいしな。まあ、ここは論議の分かれるところで、こればっかしは、本人に聞かんとわからんがな。」
「え? 秀吉は天下を獲る気はなかったのですか?」
「いや、いや、そうではない。具体的に天下が獲れそうと思ったのは、少なくても本能寺の変の後であろう。いくらなんでも、信長が生きているうちは、天下は望めるはずもないからな。」
「そうですよね。」
「秀吉は天下人になってから、あわてて子づくりに励んでいるのがその証拠だよね。天下が回ってくることが、初めから分かっていたなら、子どももちゃんと「用意」しておくはずだからな。」
「そうですか。」
「それはおいとくとしても、そろそろ、岡山の話にもどそうかな。」
「はい、父上。」
- 168 : 竹田松二郎 [] 2002/12/01(日) 14:32
甥甥
>>167 の話段々逆説の日本史めいて来たぞ 懲り過ぎでは無いかのぅ
- 169 : 竹田松二郎 [] 2002/12/06(金) 12:26
お〜い 王右衛門 風邪でも引いたかぁ〜
真面目に書け!アクセス少ないぞ!
- 170 : 名無しさん [] 2002/12/06(金) 16:40
京都から、岡山まで、歩いて帰っているようだから、まだ、着かないのでは?
- 171 : 王右衛門 [] 2002/12/06(金) 22:55
備後割譲
それでは、話を、本能寺の変の前の岡山に戻そう。
三次を発って、五月に岡山に着いたときは、全く手の施しようがなかった。備中高松城は水の中に取り残されていた。備中に着いた儂は、急遽、備後と安芸の要所である三原に本拠を持つ小早川隆景殿の陣中に呼ばれた。
「松田殿、そちは、備後の廻神であったかの?」
「はい、廻神とは言っても、現在は武田殿がご帰還なされましたので、武田殿と一緒に行動を共にしておりまする。」
「そうでしたか。同じ備後に本拠を持つよしみで言うが、今度の戦では、備後も手放さなければならないかと思う。」
「ええ? それほど戦況は不利なのでございますか?」
「そうじゃ。まもなく、秀吉の後から、明智光秀が備中に来て、さらに、信長も来るという情報が、紀州の水軍より入っている。」
「そうですか。備中を突破されれば、いよいよ備後での戦と思っていましたが、・・・」
- 172 : 竹田松二郎 [] 2002/12/07(土) 10:21
>京都から、岡山まで、歩いて帰っているようだから
甥甥
王右衛門!オマイサン カルロスゴーンから貰ったホィールキャップ3個の
ウィングロード持っとるじゃろ それ使えっノロノロ歩くなっ!
「廻神」だからと言って回り道するなっ、さてはR姫と密会しとったなっ!
- 173 : 王右衛門 [] 2002/12/08(日) 06:36
「こ のままでは、備後で食い止めるどころか、毛利全体の滅亡じゃ。備後は惜しいが、毛利家の本拠である安芸は死守しなければならぬ。備中・美作・伯耆を放棄 し、兵を引き、さらに、備後と出雲を信長にくれてやる。そして、安芸・石見を死守するしかなかろう。その条件で、秀吉と和睦するしか手がなかろう。」
「そうですか、それもしかたがありませぬな。」
「し かも、この和睦は、光秀や信長が到着するまでに、決着させる必要がある。光秀が来ると、備中から出雲に抜け、石見も獲られるおそれがあろう。しかも、信長 殿まで来ると、それだけでは、すまなくなるからのう。であるからして、儂は、輝元殿や、元春殿を説得しながら、和睦を図る。そちは、ここへいて、水軍から の情報を待っていてくれ。」
「承知しました。」
- 174 : 王右衛門 [] 2002/12/10(火) 07:22
和睦交渉
「しかし、秀吉との和睦交渉は、もう一歩の所で、進まなかった。と言うのは、われわれの中に、清水宗春を助けるべきだという意見が多く、説得が進まなかったからだ。
ところが、六月三日になって、状況が一変することになる。
儂は、相変わらず、夜も見張りに立っていたのじゃが、何やら、それぞれの陣中に動きがある。敵陣中では、いつものように灯がゆれ動いているのがわかるが、我が陣中にも動きがあった。
どうやら、安国寺殿が動いているらしい。いよいよ、和睦が決着するのだろうか、備後は織田家に奪われるのだろうか。儂は、この後,いずこへ行けば良いのだろうか、・・・。長い夜が明けてしまった。
そして、六月四日の朝があけて、高松城に異変が起こる。・・・。」
- 175 : 竹田松二郎 [] 2002/12/10(火) 20:33
sonyのテレコは良いのぉ〜
400余年も前の事録音すとるなぁ〜
すかすなぁ〜「田中」さんを面接で落としたのはいけねぇなぁ〜
「ノーベル賞」1個損すたぞっ
おぃ王右衛門 お前だろっ「山から木引っこ抜いて来て後楽園の庭園に植えたのはっ!」
戦の合間に大木引っこ抜くから 讃岐の山々は禿げ山になっちょるんょ
- 176 : 王右衛門 [] 2002/12/11(水) 06:07
宗春切腹
城から、一艘の小舟が出てきたではないか。
どうやら、それは、清水宗治だった。
一面湖になっているところへ、舟が出てきて、その中で切腹してしまったのだ。
後で聞くところによると、城兵の助命を条件の切腹であったらしい。
こうなると、今さら、こちらとしても、和睦交渉を長引かす必要はない。
早く、事を収めないと、光秀や信長が岡山に入ってきたら何もかも手遅れになってしまう。
ところが、和睦交渉にあたって、秀吉側から、好条件が提示された。
つまり、備後・出雲はもとより、争奪戦の最中にある備中・美作・伯耆まで毛利領で良いと言うのだ。
これには、こちらも驚いた。 無事に、備後に帰れるのだ。
陣中の一部では歓声があがったほどだった。こんな、好条件があろうか。
ただちに、誓紙が交換され、和睦は成立した。
時は、すでに昼を回り、夕刻が迫っていた。
しかし、夏の昼は、長いのだ。まだまだ、一波乱あった。・・・。
- 177 : 王右衛門 [] 2002/12/12(木) 06:25
「信長が殺された!」
「こちらは、毛利の陣中でありましょうな。」
その声を聞いた儂は、ぎくりとした。
いかにも、水軍というなりをした男が立っていた。
「信長が光秀殿に殺されたことを輝元殿に急いでお伝えしたいのだが、・・・」
儂は、すべてを悟った。信長は死んだのだ。そして、光秀ももはや来ない。
儂は、馬を走らせた。一刻も、早く、隆景殿・輝元殿に知らせなければならない。秀吉よりに、先に知らせなければならない。
いや、待て、・・・、馬を走らせながら、儂は合点がいった。
もはや、秀吉は信長が死んだことを知っているに違いない。だから、今日になった、急に和平交渉が成立したのだ。
秀吉は、主君を失って、急に弱気になって、毛利との和睦を勧めたに違いない。道理で昨晩、安国寺恵瓊殿の動きがおかしかったはずだ。
頭の中で、様々なことが、かけめぐるうちに、毛利の本陣に着いた。
- 178 : 王右衛門 [] 2002/12/13(金) 20:11
「大変でござる。織田信長が、一昨日、京の本能寺にて、明智光秀に討たれてござる。」
と、儂は本陣に駆け込むなり言った。
「何、それは、真実か。」
「は、間違いございません。水軍の知らせにございます。」
そして、諸将の歓声が上がった。
「うお。やったぞ、これで、織田は内部で、うちわもめぞ。」
「これを、秀吉が知ったら、さぞかし、驚くであろうて」
「馬鹿ものめ、とっくに、秀吉は信長が討たれたことは知っていようぞ」
「知っていたから、今日になって宗治を切腹させ、しかも、備後・出雲などを毛利の領地として許したのじゃ。」
「そうか、すると、秀吉は、信長が死んだことを隠し、我らを騙し、和睦を図ったのか。」
そして、猛将と称される吉川元春殿が言い放った。
「そうであるな。と、すれば、和睦は破棄して、すぐさま、秀吉を攻めるべし。」
「そうじゃ、そうじゃ。」
「そうじゃ、すぐに、兵を挙げるべし。」
陣中、主戦論が出され、陣中、騒然となった。これでは、もはやおさまらない。
そして、それまで、黙っていた隆景殿が、儂の方へ向かって言われた。・・・。
- 179 : 王右衛門 [] 2002/12/15(日) 09:18
隆景殿は儂に言った。
「松田殿、これでは、我が陣中がおさまらん。すぐさま、秀吉殿の所へ行って、真意を確かめて来てくれ。」
「はっ、かしこまりました」
儂は、馬に飛び乗り、今度は秀吉殿の陣中に走った。
「隆景殿からご真意を聞きたいとのことです。」
秀吉殿は言われた。
「我が主君織田信長殿は、去る一日、逆臣明智のために殺されてしまわれた。今、ここに成立した講和を反古にするか否かは、一つに貴方の意思に任され申さんと、伝えて下され」
- 180 : 竹田松二郎 [] 2002/12/15(日) 22:01
>儂は、馬に飛び乗り、今度は秀吉殿の陣中に走った
馬では遅いぞ!
何で、ウイングロードを使わないのかよっ!
ここで歴史が変わったかもしれんぞっ!
やり直せ! 講和を反古!
- 181 : 王右衛門 [] 2002/12/16(月) 19:55
儂は、急いで、陣中に引き返し、その旨を隆景殿に伝えた。
陣中は、「天は毛利に見方したぞ」とか「秀吉を撃って獲ろうぞ」という意向が多数であった。
そんな中で、隆景殿は、立ち上がっておっしゃった。
「我々 の見るところに多くの意見の相違があってはならんぞ。そもそも、応仁の乱以来の戦乱百年、世は太平となるべき時は来てそうろうぞ。つらつら、秀吉の人とな りを考えるに、素性は確かに百姓の出ではあっても、その軍配なかなかにあなどりがたきものがある。もしかして、信長亡き後、近い将来に天下に君臨する力量 も兼ね備えている人物であるかと儂は思うぞ。今日、両家の和議が整い、いまだ誓紙の墨が乾かぬうちに、主君信長の死去を当家に申しいで、誓紙を反古にする か否かは、こちらの意見次第とは、大胆と申すか、不敵と申すか。所詮は、この度の事、秀吉を敵としては、毛利家の行く末はないと思う。」
こう、おっしゃたのであった。
- 182 : 竹田松二郎 [] 2002/12/17(火) 11:21
>「天は毛利に見方したぞ」
甥甥
王右衛門!おまいさん最近訛増えたぞっ!
見方すてどうするんじゃ!
味方からも見放されるゾッ!
- 183 : 王右衛門 [] 2002/12/17(火) 20:46
「陣中には『秀吉を倒して天下を狙うべし』と言う輩もいたが、小早川隆景殿は『たった今、和睦したものを破棄して何になろうぞ』と輝元殿始め諸将を諌めて、早めに兵を引かれ、儂も備後に帰郷した。
秀吉は儂らが出立するのを見届けてから備中を出たらしいからな。」
「それで秀吉は中国大返しとやらで京都に帰り、すぐさま光秀を討つことができたんですね。」
「そうじゃ。儂は隆景殿の潔い態度に感服した。
その後は、隆景殿は秀吉と協調路線歩み、父元就殿の『天下を狙うな』という遺言を守られたのだ。」
「そうでしたか。
今までは、毛利側が秀吉にうまくしてやられたと思っておりましたが、父上の話を聞いてほんとのことが分かりました。」
- 184 : 王右衛門 [] 2002/12/19(木) 05:48
「前にも言ったように、秀吉殿は、まれにみる幸運児だったことは、確かであるな。
一日遅れではあったが、毛利方も、本能寺の変の事実を知ったわけで、和睦を破棄して、秀吉を襲いかかることも、やろうと思えばできたわけだからじゃな。」
「そうですね。秀吉殿が天下を獲れたのも、毛利家のお陰でしょ。」
「まあ、確かにな。秀吉殿は、感謝はしていると思うがな。その証拠に、天下を獲った際に、五大老を置いたが、その一人に毛利輝元殿をつけているが、それは当然としても、さらに、小早川隆景殿も加えているから、備中の和睦は嬉しかっただろうな。
ただ、秀吉殿も幸運を生かすように動かれたのは、確かじゃ。
急いで京へ帰るわけだが、とにかく、早ければいいというのではない。
備中から、兵を引き上げるにつけても、毛利家の反抗はないかどうかは、注意深く動いている。
また、姫路に帰って、そこで態勢を整えて、京を目指す途中で明智との激突になり、あの有名な「天王山」を占拠するわけだが、だからと言って、やみくもに攻めたわけではない。」
「と言いますと・・・」
「ここまで、急いで兵を展開しているのに、秀吉殿は、実際にはすぐに決戦を始めずに、半日、待つ作戦を採った。
さて、半日も何を待っていたのか、お前には分かるかな?」
- 185 : 竹田松二郎 [] 2002/12/19(木) 08:01
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( ・∀・) (/)(´∀` ) (゚Д゚ ) 高杉神社が有名になりますように
(つ つミ (/)(⊃⊂ ) ⊂ ⊃
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/////ノ,,,,,,ヽ ////|| |〜
- 186 : よす [] 2002/12/19(木) 11:41
>>185
無理だな
- 187 : 竹田松二郎 [] 2002/12/19(木) 15:57
>>186
まぁ十七代目では無理だけんど〜
十八代目なら ナントキァシルカ〜モ ??
- 188 : 竹田松二郎 [] 2002/12/19(木) 21:13
>>184
>さて、半日も何を待っていたのか、お前には分かるかな?
59円のマクドナルドをコンビニまで買いに行った使者が帰るのを待っていたのだろっ!
- 189 : 作者 [] 2002/12/19(木) 22:45
>>184の下部が隠れたので、再UPしておきます。
王右衛門
「(備中から大返しと称して)ここまで、急いで兵を展開しているのに、秀吉殿は、実際にはすぐに決戦を始めずに、半日、待つ作戦を採った。
さて、半日も何(ある武将)を待っていたのか、お前には分かるかな?」
ところで、史料を調べると、備中の和睦の際に、毛利の軍勢がわずかの人数であるが、秀吉の軍勢とともに、行動を共にしたという記述もある。
この時点で、王右衛門を備後に帰郷させるのでは面白くないので、秀吉の軍に加わって、京まで行かせようかとも思っている。
- 190 : 王右衛門 [] 2002/12/21(土) 07:36
5五の位は天王山
「実際に儂が山崎に着いた時は、すでに、天王山は、羽柴秀長殿・黒田孝高殿・神子田正治殿の秀吉軍で占拠されていた。
ところが、秀吉殿は、ここで、一気に攻めず、お二方の到着を待っていた。
丹羽長秀殿と織田信孝殿を待っておられたのだ。
まあ、しかし、このお二方の軍勢が加わらなくても、人数的には、すでに明智軍を上回っていた。
なのに、なぜ、半日も、待ったのか。
それは、秀吉殿が、この山崎の合戦後のことも考えていたということなのじゃ。
儂が、岡山で本能寺の変の報せを受けたとき、確かに、信長殿の死は分かっていたが、信長殿の嫡男の死まで分かってはいなかった。
同様に、秀吉殿も、そこまではご存じではなかったと思うのじゃ。
天下獲りが現実性を帯びたのは、信長殿が父子ともに討たれたと分かってからだと思うのだよ。
確かに、山崎に着いて、天王山をとった時点で勝敗は見えている。
秀吉殿は、明智に勝つか負けるかが問題ではなく、「勝ち方」が問題だったのであるよ。」
- 191 : 竹田松二郎 [] 2002/12/21(土) 20:36
>問題だったのであるよ
甥甥
最近 訛 が増えたゾッ であるよ 何て中国人だゾッ
これおかしいあるよ なおさないとへんあるよ アヒルにげるあるよ
- 192 : 名無しさん [] 2002/12/22(日) 18:57
> \
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\ |人=====//=∨/=/
/\ |=| (V ) | ||=| (V ) | |
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\_ 人___ ノ Д _ レ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
< |\ ⊂つ / <庭木抜いたのは、十七代目!
/\ へ _ _/ \_________
へ、 | ̄\ー フ ̄ |\ー
/ / ̄\ | >| ̄|Σ | |
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| \_/ ヽ
| __( ̄ |
| __) 〜ノ
人 __) ノ
- 193 : 竹田松二郎 [] 2002/12/23(月) 21:32
>>192
庭木だけでは無いですたぃ
どこぞの石碑も引っこ抜いたらすぃ ぁゃcぃ ぁゃcぃ
- 194 : 王右衛門 [] 2002/12/24(火) 08:15
「まずは、山崎の合戦の陣形から説明するぞ。
秀吉は、明智を討つために、京へ上ってくる。
光秀としては、京の地は防御に困難だから、中途で待ち受けることになるが、その地として、山崎を選んだのは、そう悪い作戦ではなかった。
なぜなら、淀川沿いに上って来る秀吉軍に対して、山崎の地は、天王山がせり出し、最も狭い通路になっているからだ。
進撃してくる側は、土地が狭いために、横に展開できず、縦列体型にならざるを得ず、それを迎え討つ、迎撃側は容易に撃退することができる。
過去、信長殿が、今川の大軍をうち破った桶狭間もそうであったし、我が主君元就様も、狭い厳島に陶の大軍をおびき出して、少数の軍でうち破った。
確かに、厳島の地は、進軍の通路とは言えないが、狭い島の中で、陶軍が右往左往した事実はあるし、逃げ帰る本隊に、待ち伏せしていた隆景殿の軍が襲いかかって、勝利を得ている。
- 195 : 竹田松二郎 [] 2002/12/24(火) 09:05
>王右衛門投稿日:2002/12/24(火) 08:15
甥甥
おまいさん 学校もう休みなんかよっ!
登校時間忘れてもた〜 と モタモタしとるんじゃなかろうなっ
忘れてたのなら 今からでも峠越えて志和地へ行け!
王右衛門
おまいさん まさかぁ従軍記者しとったんじゃ無ぇだろうなっ
良く覚えとるけん
- 196 : 備忘録 [] 2002/12/25(水) 10:57
テレビ放映
12月25日(水)21:15〜
NHK「その時歴史が動いたベスト選」
「本能寺の変」
1582年6月2日、織田信長は、明智光秀に討たれた。
- 197 : 王右衛門 [] 2002/12/26(木) 09:44
400年後の世界では、絵写しなるからくりがあるのかの。
昨晩、信長殿が光秀に討たれていたけど、光秀の反抗は計画的だった
ということが、言いたいのであろうが、それなら、なぜ、毛利にも事前に計
画を報せなかったのじゃ。
要するに、光秀の計画には、計画的な面と衝動的な面と両面があったのではないかな。
まあ、人間は完全な人間はいないということじゃな。
- 198 : 王右衛門 [] 2002/12/27(金) 06:38
「山崎の地形を見ると、すぐ分かることだが、先に山崎に到着したはずの光秀が、なぜ、天王山に陣を張らなかったという疑問じゃ。
儂が思うに、主な理由は2つある。
天王山に陣を張ると、秀吉軍は京に向けて北上するには、天王山と淀川に挟まれた狭い通路を突破することになり、そこが大激戦地になることが予想される。
しかし、その通路には、小さな「街」があり、その街の主から、陣を張ることの協力が得られなかったということを後で聞いたのじゃ。
まあ、どこまで、真な話かはわからんが。
しかし、根本的な原因は、光秀側に十分な兵力が集まっていなかったということじゃな。
つまり、天王山に兵を配置すべき人員が足りなかった。
それで、光秀は淀川に流れ込む円明寺川の向こう岸に陣を張ったのじゃが、この川は淀川と違い、単なる「小川」みたいなものじゃからな。
結局は、地の利を得られんかったわけじゃな。」
- 199 : 王右衛門 [] 2002/12/28(土) 07:29
「さらに、厳島の決戦と、山崎の合戦の共通点がもう一つあるのじゃ。」
「父上、それは何ですか」
「それはな、陶と明智は、どちらもな、裏切り者、だったたと言うことじゃ。
陶は主君大内を殺した後だったし、明智も主君信長殿を討った直後の合戦じゃった。
明智は本能寺の変の後、周辺の武将に、同盟や与力を頼んでまわったが、なかなか、光秀とともに行動を共にしようと言う武将は集まらなかった。
しかも、奪った安土城に従兄弟の明智秀満を配置していたので、戦力を無駄に残していたわけじゃな。
秀満もいっしょに山崎まで連れてきていさえすれば、天王山に先着して拠点を確保することもできたじゃろうに。
全軍を率いて上って来た秀吉殿に比べて、戦う前から人数的に不利だった。」
「でも、父上、厳島の決戦の場合は、元就様の軍勢がはるかに少なかったわけでしょ。」
「おう、そのことじゃがな。確かに陶は、元就様の何倍もの軍を率いていた。・・・・」
- 200 : 王右衛門 [] 2002/12/29(日) 13:01
「軍勢が多かった方が負けたのは、桶狭間と同じじゃが、山崎の合戦とはまるで逆じゃ。
桶狭間は、信長が数の劣勢さを機動力で跳ね返した。
山崎の場合は、数の差が、そのまま勝敗に表れた。
厳島の場合は、数の差を、機動力で補うとと同時に、陶の「裏切り者」の汚名をうまく利用した。
つまり、いったん厳島で決戦が始まると、大軍が身動きがとれなかったことはあるが、その動きがとれなかった有力武将は、形勢を判断すると、陶に与力せず、静観の構えをとった。」
「ええ? 陶の家臣は、裏切ったのですか?」
「裏切ったとまでは言い切れないが、積極的には戦闘に参加しなかった。まあ、最後まで陶と行動を共にしたのは、弘中氏ぐらいのものであるな。
負け戦であれば、とにかく、大地の上なら、自分の領地へ逃げ帰ることもできるが、狭い島の中で、水軍は隆景殿がおさえていたからな。
逃げ場を失って、あえなく討ち死にした。
全く数の有利さを生かせなかった。」
- 201 : 竹田松二郎 [] 2002/12/29(日) 13:53
王右衛門よ おまいさんsonyのテレコだけで無くてsonyのビデオカメラも持っちょるなっ
まるで見てきた様な実況検分だなっ!
怪力だけでは無いのかよっ すこす知恵もあんなぁ かんすん かんすん
- 202 : 王右衛門 [] 2002/12/30(月) 18:09
「裏切り者という汚名が、光秀の場合は、合戦の前に影響が出て、軍勢が集まらなかった。
陶の場合は、合戦が始まってからが、大軍をを引き締められなかった。
いずれにしても、秀吉殿や元就殿が一枚も二枚も上手じゃった。
秀吉殿の場合は、毛利側がきちんと和睦を守ったからこそ、すべての軍勢を引き連れて、光秀に当てることができた。岡山や姫路にほとんど残留部隊を残さなかった。
その点、秀吉殿は、毛利に感謝しても良いと思うがの。
実際にも、天下を獲った後は、輝元を五大老にすえられたのは当然だが、それに加え、小早川隆景殿も加えられたのじゃから、毛利家については破格の扱いじゃったと思われるな。
ただ、豪傑で知られる吉川元春殿は、秀吉の家臣になることを潔くとされず、隠居されてしまわれたがな。
しかし、その吉川家は、関ヶ原の戦いでは、毛利本家を救うことになるがの。」
「父上、それでは、次は、関ヶ原の戦いですね。・・・・。」
- 203 : ごん [] 2002/12/31(火) 19:17
関ヶ原の合戦に行かれる前に、今までの話で、将棋に関係することが、出てきたので、2点ほど書き添えておきますね。
まず、1点目は「5五の位は天王山」のこと。
戦後、5五の位は占めれば、将棋を有利に展開できると言う意味で、山崎の合戦の天王山のことを引き合いに出される。
当時の史料から判断して、天王山を光秀が占拠していれば、光秀側が戦に勝てたかどうかというと、それは疑わしいとは思う。
秀吉側から考えると、いくら大軍とはいえ、天王山を占拠されていては、強行突破もできないから、例えば、天王山を直接の攻撃目標にするとかして、別な戦術を用いるであろう。
光秀側にも、天王山を占拠しなかった理由というか、内部事情もあったわけだから、それはそれで「一局の将棋」であったろう。
将棋では、天王山は5五位置を意味しているが、地理的なことを考慮すると、端の1筋の攻防にたとえるのが一番ぴったりではないか。
当初、1六歩−1四歩と端を受けていたが、1七香、1八飛、1五歩からの端攻めを見せられたので、1四の拠点は放棄して、1三の位置を争点にして、1一香、2一桂にさらに、2二銀と引いて受けにまわったという感じであろうか。(つづく)
- 204 : ごん [] 2003/01/01(水) 20:15
>>203 文字だけの説明では、分かりづらいので、地図をUPしておきますね。
山崎の合戦付近図
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/166.gif
山崎の合戦は6月13日に行われたが、それまでに、光秀は援軍を待っていたのだが、有力武将は集まらなかった。
それに対して、秀吉側は、丹羽長秀・織田信孝の到着を待つ「余裕」を見せた。
この二人の武将を待つべくもなく、天王山も占拠し、数的にも圧倒的優位であったのだが、わざと、丹羽長秀にも手柄を立たせることで、先輩長秀の取り込み、清洲会議での多数派工作により、柴田勝家の封じ込めに成功したのである。
- 205 : ごん [] 2003/01/03(金) 03:10
>>204に写真をUPしましたが、地形図ではないので、分かりにくいですね。
それで、地図に私が、陣形図を書き込んでみました。
↓
http://131.206.108.31/~matsuda/bbs3/img/168.gif
高速道路を通ると、大阪と京都の境で、「天王山トンネル」を通過しますよね。
あそこですよね。
天王山の形は、茶色で示しましたけど、住宅街や道路から想像して私が描いたので、実際とは、違うかもしれませんが、だいたい合ってると思います。
通常の有利な陣形を敷くなら、光秀側は、天王山を占拠し、宝積寺付近から淀川にいたるせまい地域で決戦を行えば良かったことが、地図を見れば分かると思います。
本能寺の変後の13日間で、迎撃の準備が整わなかったのが、明かな敗因ですね。
- 206 : ごん [] 2003/01/04(土) 12:36
将棋と関わることで、もう一点あるのだが、・・・・。
まあ、これは、山崎の合戦や厳島の決戦だけに限ったことではないが。
将棋のルールに「獲った駒は自分の戦力として使うことができる」というのがある。
世界各国には、「将棋」と同様なゲームがあるが、世界の中でも、駒の再使用のルールがあるのは、日本の将棋だけらしい。
その点が、日本の風土に合っていたわけである。
時代によっても違うのは確かだが、戦を前にして、どの武将を自分の主君として選ぶかは、大きな問題であったし、いったん戦が始まって、味方が形勢が悪くなると、敵方に寝返ることもあったらしい。
勝った側も、その「寝返り」を公認し、戦の後の論功行賞では、自分の領地は減らされるにしても、自分の領主としての立場は守られた。
その辺りの日本的な風土が、「将棋の駒再使用」ルールを生む素地になったのであろうか。
- 207 : 王右衛門 [] 2003/01/05(日) 21:17
関ヶ原の戦い
再び、廻神城主藤二郎の話が始まった。
「さて、今宵は、関ヶ原の合戦のことを話そう」
「はい、父上」
「関ヶ原の合戦は、わしらにとっても存亡をかけての最大の危機じゃった。
ついに、石田三成が家康討伐に挙兵する。
安国寺の誘いで、元就様の孫である輝元殿は安芸を出立され、その時わしも廻神を発って同行した。
大坂城に入城された輝元殿は西軍の大将に推された。
元就様と三吉の方様の間に生まれた元康殿は大津城攻めに、そして、関ヶ原には同じ元就様の孫である秀元殿を先遣隊の大将として派遣された。
わしも、秀元殿に従軍し関ヶ原に着いたのだった。」
- 208 : 竹田松二郎 [] 2003/01/06(月) 06:01
>再び、廻神城主藤二郎の話が始まった。
甥甥 おまいさん
王右衛門ょ 親の名前間違えてどうすんのょ
「藤次郎」だゾッ 高杉松田家は代々ボケて来とるけん 親の名前位は忘れるなっ
あぁ それと近所の庭木引っこ抜いたらハニーンとして しょっ引かれるゾッ
- 209 : 王右衛門 [] 2003/01/07(火) 21:10
「わしたちは、石田三成の本隊とは向かい側の山に陣を敷いた。
なぜかと言うと、すぐ右そばに長宗我部殿、長束殿、安国寺の隊がおり、家康殿を挟み討ちにするには絶好の場所だったからだ。
ところが、わしたちの前方をふさぐように、吉川広家殿が陣を敷いたのだ。
実はこれには大きなかけひきが隠されていたのだ。
しかし、その時は何も知らないわしたちは、じっと東軍を待ち受けていた。
おっと、言い忘れておったが、この時には、小早川隆景殿は、他界されており、その小早川家は秀秋殿を当主にしていた。
しかし、みんなも知っている通り、秀秋殿は、隆景殿の実子ではない。
すなわち、秀吉殿が、秀秋殿を毛利家の養子にと、押しつけてきたときに、隆景殿が機転を効かして、自分の養子になされたのだ。
そういう意味でも、隆景殿は、毛利家を救ったと言えるのじゃ。」
- 210 : 竹田松二郎 [] 2003/01/07(火) 23:47
甥甥
おまいさん sonyのテレコに何時間分録音すてたのじゃ
すこす詳し過ぎるけん
おすえてくれ
テープはデォデォで買ったのかぃ?
- 211 : 名無しさん [] 2003/01/08(水) 17:54
, ‐ァ'⌒ヾヽ ァ'⌒-‐-、
{___{==O}}.}⌒ ⌒ー-::,,.}ユ、 ∧∧
r「-‐ヾ、ァ'´,::'´/ハヾ::、、ヽ、ノ < 王
ハ _,、_/:::/::::/ ノ }ノ \i} ト、 < 右
. /:..l`ト⌒ヾ.、::/⌒` ⌒`// .:ヽ. < 衛
{:::::|::iヽ、 、 ){ァ'T.ヽ .ハヾ/ハ::::::::l < 門
ヾ、::l ヽ 'ヾ:l {__ツ {ツ.'{ノ .l:i::ツ. < ッ
ヾ ハ ,__ト, ''.'' (⌒ ツ::} レ'^ <
〉ニ,,_ノヽ` ー‐''´ヾシ' ∨∨
l、 ノl/iニ)、ヾ、
`} '´ 〈 〉^ツ
/ == `ー' 〉‐っ
/、_...._ ヾ〉┘
〈ー、 ,,..,, .``ヽ、... ,べヽ
 ̄ ~`´iー`ヽ、_,,..=-、ハノ
l | | l
{,、,、,i, l,、,、|
[ ェュソ[ ,ェ}_
F=ィ⌒ヽ =ィ'⌒ヽ
[、_ノ⌒l_ノ⌒}
- 212 : 王右衛門 [] 2003/01/09(木) 06:52
関ヶ原の戦い
「そして、9月15日の早朝、東軍井伊直政隊が宇喜多秀家の陣所に銃をうちかけて、激戦が始まった。
東軍は、わしたちとは向かい側の笠尾山にいる三成本隊をねらって、まず西軍の黒田・田中・細川などの諸隊が襲いかかった。
これに対し三成側は島隊を中心に迎撃し、激闘を展開。
一方、東軍左翼では、福島隊が宇喜多秀家と、織田・寺沢隊が西軍小西隊との白兵戦に突入した。
両軍とも一歩も譲らない戦況になった。」
- 213 : 王右衛門 [] 2003/01/10(金) 07:06
「今、西軍で戦闘に加わらないのは、三成のすぐそばの島津隊、松尾山にいる小早川隊、そしてわしたちの毛利・吉川隊だった。
確かに、わしたちの前方の平地には、池田・浅野・山内などの諸隊が家康を守るべく待機していたが、数にものを言わせて攻め込めば、家康の背後をつくことができる。
わしは、秀元殿の命令をじっと待った。
しかし、わしたちの前方にいる広家殿が一向に動こうとしないのだ。
しびれを切らした秀元殿がわしを呼び寄せて言った。
『藤次郎殿、前にいる広家殿の所へ行って、出陣を促すように言って来てくれ』と。
わしは、すぐさま広家殿のもとへ駆けて行った。・・・・」
- 214 : 王右衛門 [] 2003/01/11(土) 07:38
関ヶ原
わしは、広家殿に、秀元殿の伝言を伝えた。
すると、広家殿は、こう答えられた。
「藤次郎殿、今回は三成個人のほう起だ。
三成では西軍を統率できない。
戦は東軍が勝つに決まっている。
西軍には加われない』とおっしゃったのだ。
わしは、すぐに秀元殿の陣に帰って、広家殿の言葉を伝えた。
秀元殿は、それを聞くと、黙ったまま座られてしまった。」
- 215 : 王右衛門 [] 2003/01/13(月) 07:23
小早川、寝返る
「昼近く、戦闘がこう着状態に陥ったその時だった。
徳川隊の銃声を合図にするかのように小早川隊が松尾山から降りて来た。
そして、なんと西軍であるはずの小早川隊が、西軍右翼の大谷隊を襲ったのだ。
これを見た西軍の脇坂隊なども東軍に寝返ったから、戦況は一変。
西軍は壊滅状態となった。
わしたちは、出陣を控えていたのでほっとした。
実は後で分かったことだが、広家殿は安国寺殿の誘いを断り、家康殿と密約を結んでいたのだ。
この機に至っては、もはや西軍に加われない。
わしたちは偵察に出かけた。」
- 216 : 竹田松二郎 [] 2003/01/13(月) 08:23
洞ヶ峠の毛利軍カョ
- 217 : 王右衛門 [] 2003/01/14(火) 07:29
「昼過ぎ、局面の悪化に西軍は浮足立つ。
三成は、未だ戦闘に加わらない島津隊に、戦線に出るよう、伝令を走らす。
三成の使者が馬に乗っかったまま『島津殿、早く戦闘に加わってくだされ』と叫んでいる。
それを見た島津殿は『無礼者。馬の上から何たる口上。自分の戦は、自分でする。三成の指図にはしたがわん。』と、言い返した。
- 218 : コーヒータイム [] 2003/01/14(火) 19:49
>>216 用語解説(「広辞苑」岩波書店刊より)
◆◆洞ケ峠(ほらがとうげ)◆◆
京都府南部と大阪府枚方市との境にある峠。
天王山の南約7kmにあり、1582(天正10)年の山崎合戦に筒井順慶がここに陣して、どちらに与しようかと形勢を観望した故事による。
心中両者をかけ、有利な方に赴こうとして形勢を観望すること。
日和見。
- 219 : 竹田松二郎 [] 2003/01/14(火) 20:15
>>218
何も解説する程の事でも無いじゃろ
例えばなっ 風見鶏=中曽根康弘 とかなっ
内股膏薬=鳩山邦夫 とかなっ
骨折り損の草臥れ儲け=モノホンgon とかなっ
アホの一つ覚え=端角中飛車 とかなっ
色々あるじゃろ
- 220 : 竹田松二郎 [] 2003/01/14(火) 21:11
お〜い王右衛門!!
クレオパトラからラブレターが来たゾッ〜♪
لفكرو و مصريوواطارمصريججتهاouemonالآداب
دات مصراالفنونلميتاثقافةية فى
ار الميتااطثقجتهادات
طارمصرية اطارا
مصريججتهاالميتاطارمصرية اطار
الآدابouemonثقجتها
دات ات مصراloveلفنوندالفنون
- 221 : 故事成語2 [] 2003/01/15(水) 19:59
★★元の木阿弥★★
昔、筒井順昭が病死したとき、嗣子順慶がまだ幼かったので、遺言により、南都の盲人木阿弥の声が順昭に似ているのを利用して、彼をほのぐらい寝所に置いて順昭が病気で寝ているように見せかけ、外来者に示した。
嗣子順慶が長ずるに及んで初めて順昭の喪を発し、木阿弥はもとの市人となったという故事に基づく。
再びもとのさまにかえること。
いったん貧窮から起こって資産を作った人が、再び元の無一物に戻ること。
- 222 : 故事成語不成 [] 2003/01/15(水) 20:24
大男総身に知恵が回りかね 独活の大木 無用の長物
何て言われない様に 頑張ろう 王右衛門
毎日将棋の普及 御苦労さん あまり誉めてくれる人いないがねぇ
根気有るじゃん
その内良い事有るじゃろ
- 223 : 故事成語3 [] 2003/01/17(金) 06:31
よく考えてみれば、山崎の合戦での筒井順慶と言う武将は、戦国時代、
たいした働きもしなかったのに、故事成語に関して言えば、2つも関係しているのであるね。
ところで、「・・・・天王山」という故事成語は、正しくはどうだったっけ?
「5五の位は天王山」・・・・は、これは将棋の格言ですよね。
「天下分け目の天王山」だったかな?
「天下分け目の・・・」だったら、「関ヶ原」ではなかったかな?
自分は「文系だ」と言ってるくせに、わからなくなっちゃったよ。
- 224 : 故事成語不成 [] 2003/01/17(金) 07:04
>2つも関係しているのであるね。
あなたオカシイー「あるね」訛り沢山「あるね」
>自分は文系だと言ってるくせに、わからなくなっちゃったよ。
保育園児でも知ってる「あるね」
「天下分け目の関ヶ原」あるね
- 225 : 故事不成 [] 2003/01/17(金) 17:51
>>224
「天下分け目の関ヶ原なら、
じゃあ、
「天王山は・・・」何て言うんだったかな???????
- 226 : 名無しさん [] 2003/01/17(金) 18:20
_,ノ‐''''''^¨¨¨⌒ ̄⌒^^''¬-、,_
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| ノ .────ー } __,,.,、v--ー'' { .] /
| :| .__,.. .! ` .} .} < 天王山は要の
} .| .--:;:冖^ ̄ .| ¨¨¨¨¨¨゙フ¨¨′ .} } \
.| .} .\_ .} ._/ } .:| 場所の事言うけん
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r′ | .リ.
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おまいさん 5五角何か打ちよる時は『ここが天王山じゃけん』と言うたら良いけん
総力戦なら『関ヶ原じゃのぅ 飛之介・龍馬・角之進・金治郎・銀之丞・桂太郎・右香』
と一族郎党に口伝すとけょ
- 227 : 洞ヶ峠駒子 [] 2003/01/18(土) 05:52
“どっち勝つのかなぁ 見物しよっ”
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i ヾiヘ:::レ'-‐r‐'~''''''<、ニ ゙'''ヽ、.i::::::;ィ/ |
ト、,,,_ ヽ/-''i´ _,.\ヽ,-- /::メi/ i
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ノ / /´::::::└ヽ,i.i,,,i メ,ノi::::::::::::::::::::i ~゙i i
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- 228 : 筒井順慶 [] 2003/01/18(土) 10:22
おい、おい、おまえさんたち。
儂は、「洞ヶ峠」を決め込んだ日和見ではないぞ。
それは、濡れ衣であるよ。厳重に抗議申し上げるであるよ。
真実は、光秀殿が、洞ヶ峠に兵を出したのであり、儂は、どちらに与しようかと、洞ヶ峠で迷ったことはない。
もう少し、詳しく言うと、確かにこの儂は、光秀殿のおかげで、大和郡山城主に出世したのは確かだ。
しかし、光秀殿が、主君信長殿を殺したのは、いけないであるよ。
6月9日に、光秀殿は下鳥羽、10日には河内に近い洞ヶ峠まで進出されて、儂たちを誘われたのだ。
しかし、儂は10日の時点では、すでに、光秀殿を支持しないと決めていたのじゃ。
だから、儂が「洞ヶ峠」を決め込んだというのは、嘘であるよ。
光秀殿は、儂のために、洞ヶ峠で丸一日時間を浪費されてしまったのは、後々のために、大きな痛手であったろうな。
だが、そのおかげで、3つも故事成語ができてしっまたであるよ。
- 229 : 洞ヶ峠駒子 [] 2003/01/18(土) 17:06
>抗議申し上げるであるよ
>いけないであるよ。
>嘘であるよ。
>できてしっまたであるよ。
だってさぁ
「あるよ」が多すぎるじゃん
筒井さんって多分日本人じゃ無いわよねぇ
インディアン嘘付かないもん もしかして筒井さんってインディアン?
- 230 : 王右衛門 [] 2003/01/20(月) 07:12
関ヶ原 終焉
「もはや、三成殿に統率力はなく、総崩れ。
そして最終局面で勝敗は決したと思われたなか、最後の最後に島津隊が家康本陣を目がけて切り付けた。
が、果たせず、戦線離脱し、そのまま鹿児島まで帰ったと言う。
その後の結果はおまえも知っての通りじゃ。」
「はい。
結局は、松尾山に陣を敷かれていた小早川秀秋が西軍を裏切って、徳川殿についたことが、東軍を勝利に導いたわけですね。」
- 231 : 名無しさん [] 2003/01/20(月) 19:45
@)ニ)∋):=ロ)厂)┐( ・ω・ )
 ̄ ̄└|=__|= = = =|___
__==ニ二 ∩~ ̄ ̄ヽ \_
_____ /Ζ~~7 | ☆ | | )--
.(()) )) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄))| | | ||
~~~~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ√_\__________丿 √~7 ̄~|~ ̄~|
__())/~ ̄=== / | \Г ̄ ̄ ̄ ̄|丿--丿--丿
徳川倒せ!gon / ̄ ̄/__|---~ ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄Z ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
(三三(――――――(三三( ̄() ̄ ̄ ̄() ̄ ̄()~7\
|====ヽ々 々 |====|__ __ __ _ _ _ |()|
V===7ヽ______V===ヽ ヽ ヽ| ヽ ヽ ヽ ヽヽ /\
. V===ゝ丿 丿 丿 丿丿V===ヽ丿 丿 丿 丿 丿 丿/ \
- 232 : 王右衛門 [] 2003/01/28(火) 20:59
山口転封
「そうじゃ。
しかし、実際には、関ヶ原合戦が済んでからが、大変じゃった。
大敗を喫っした西軍は次々と家康から切腹や領地没収の処罰を受ける。
輝元殿も例外なく領地没収の危機に立たされた。
だが、それを救ったのが広家殿というわけじゃ。
戦に加わらせなかった広家殿の事を悪く言う輩が多いいが、後から思うと広家殿が賢かった。」
「広家殿が毛利を救ったと言えますね。」
「そうじゃ。広家殿は自分の領地を差し出し、毛利宗家に渡すように家康殿と交渉された。
それにおされた家康殿が、広家殿に渡そうとした周防、長門の二か国だけは、輝元殿に安堵された。
それで、武田殿やは、領地没収はまぬがれたわけじゃな。
ちなみに、広家殿は岩国に入封されたのは、知っておるであろうよ。」
- 233 : 名無しさん [] 2003/02/02(日) 12:12
彡彡/@ヾ
(__/ノノノノ ミヽ
|( | ∩ ∩|)| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
从ゝ_▽_从 < 王右衛門チャン!最近見ないネッ!ドッタノ?
/))ヽ----イ( \ \_____
/ /( )ヽ \ _________
. ( ξ. ) ミ 彡 ( /ξ.. ) ../ /_|
./ | |ヽ、______,/ / / ( ̄/ ̄◎ノ
. | | | , /−/ W ̄ ̄
\| ̄ | .ヽ/ ̄ ̄\
| |\│ | ブリッ!
=( ⌒)=--------- ブリブリ
- 234 : 王右衛門 [] 2003/02/02(日) 20:07
高杉顛末
「さて、そこで、武田氏は、兄が山口へ行かれ、「高杉殿」と名乗られ、弟殿はそのまま高杉在地の祝(武田)となられた。
そして、いっしょに高杉に残ったわしたちは、廻神から「松田」へと姓をもどしたのだ。
そんなわけで安芸備後の国人領主たちはそっくり山口へ移って行ったのじゃ」
「薩摩殿も、最後の突撃が効いたとみえて、鹿児島が所領安堵となったと聞いております」
「そうじゃな。300年後には、毛利と薩摩が手を組んで幕府を倒すことになるかも知れんな。」
「父上、ご冗談を」
「はははは。」
- 235 : 名無しさん [] 2003/02/07(金) 13:46
_,,,,,,,,,,,,,_
,, -''" ` ー、_
, ' ,、 、 、 ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,.' i '! \.、、 、 ;::;ヽ < 看護師に成るよ〜ん
',i ,i ':!/:! 丶_>、.iヽ i.、::::', \_________
i/! , ,':l/'!'-- v'ニ--─ ヽ i'、、:::i
!/,i.!'''" ̄ ヽi' ヾ::i
!' i、i ` ノ:::!
l 'i _ ,-:'"::::l
! 丶_ ''~ ,/:::::::::::::!
! :: ::::::ー-...,,_,..-:'!、::::::::::::;i::!
i :i'、 _; -ー' '!:: i`ー 、;:;!i:;!
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/⌒ヽヽ、 \_ . 7 ヽ i
/:| \\ `<⌒| ||\
く.: : :| ー-、_.〉'´\_\|,..='」. |
\_| | _``「_)´ _) |
ト、 .|\i_,..'´<\__.〉.|
/ l. | / / | `ー-、. |
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〈 .| R 子 〉 .\/ >ー'´ .〉
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/| l l |. |,.-‐、| :|,.-‐,|\
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く // .l .| | .r'´ |_l_.l_.l 〉^〉//l.〉 \`>
/ ./ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄li
“王右衛門君 最近冷たいけん 注射でも打ちよるけん”
- 236 : 名無しさん [] 2003/03/03(月) 05:30
, ‐'"´ `'‐、
, '" , -‐‐≡三~、''‐ヽ
/ , ‐"::::::l::::::::::::::ヾ::ヽ ヽ
/ , ‐'":/:::::|::::|:::ヾ:::::ヽ:ヾ::::ヽ ヽ
/ , ‐":::/::::::/::|::::|:::l:::ヽ:::ヾ::ヾ::::ヽ i、
./ / /::/:::/::::::/::::l:::::l:::l|:::::|:::::l:::i:::ヽ:::l i,
'i // /::/:::/::::::/:::/ll'|::||::l.|:::::ll:|:|'i::i'|:::|:::| /
.l ////::::/:/::l::::l l‐|‐i|-ll-|、.ヾ||:|-‐|‐|::|::|/
.| .// i::/:/:::/|:::| |., ‐i"゙O|''、 'i"q';、;::::l
.ヽ l l .i::/:;;;=-l:::|‐i l;。::::j l;::j. i:::::;:l
ヽ |/:/:::l!"L|::i. ''''''"  ゙̄ .i:::::|i:l
. ヽ/:/l::::l'i 、゙!:l. __ ' /:::::i.ヾ、
/://,|:::|:|:/:|:|"'、, /l::|:|:::|:l ヾ、
//./ |::|:/:/::/-ヽ ー- , _/|::::|::::|::::|l:l ヾ:、
// | ||:::/:::i/ヽi., ‐'"´ヽ ̄,;/::::|:::|:;, ‐i:l l:/
..// | /::/::l::lヽ i ̄\ ,入/:::::l::::l / ヽ|//
// | /::/:/:/` ヽ ヽ ヽ/ /:/:::/::l/ ,,,l‐i
|:| | /::/:::/i |``'',二l二-ヽ, /://::/:l‐‐''" l
“王右衛門君 1ヶ月も登校しとらんとよ”
- 237 : 松田 [] 2003/03/10(月) 19:06
三次登場・・・「水戸黄門」
急な話だけど、今日(3月10日(月))午後8時からのTV番組「水戸黄門」で、三次が出るらしい。
なんか、ようわからんけど、三次人形の窯元が、出るらしい。
まあ、興味のある人は、見てみたらと思う。
- 238 : 名無しさん [] 2003/03/11(火) 08:06
_,,,,,,,,,,,,,_
,,r;:r"" ヽ、
,r'" " ,r''"` ヽ、
,r" / ,,r ,r"rヾ、`ヽ、 ヽ、
,|、_ (_ _ (_,r"'" ヽ、 `ー、i
,|ヾl`'ー`ヽ!`i'" ゙i、 _,〕
tヽ| ゙i、 ヾー[」-!、
ヾ| ゙i、,| _,,,;;;=''"` ヽノ、 〕 ごんの広大時代
!i,‐-;;;;;;、,゙i、r'"-,ニlア |i、゙`イ| こんな顔だったと記憶しとる
|`i;-、ニlア i、 " |、ヾ|l|゙
| ゙i, |:| | ゙i, ノ,
゙l、 `!_,,. | ゙i |
゙!、 ,,,,.. -''' / |
゙i、 -- ,r' ゙i_!-;
`!、 ,r"_,,,r-'''ニ-‐''゙i
rヾ、`ーr‐''ニ""-‐'" ヽ,.........,___
__λ i,ヾ| i''" _,,.r-t"_,r'"_:_:_
____,......r-i'",r'ヽ | |:| | _,,--'" ~ヽ、::::: !.
< ̄ j'"ー'''''j;, ̄ ̄ `i | |:| | _,,r''" ヽ、::::: `t、/
冫>、i :::::,r'" i i,r ノ_,,r'" ヽ、:::::.. /
|,イ'" ::,r" ト,i",r'" ヽ、 :::/
/::::,r'" __ // | r'" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ ヽ/
- 239 : 王右衛門 [] 2003/03/13(木) 07:12
三次でおこった事件を黄門様は解決して、黄門様一行は、広島に歩いて行かれているらしい。
来週は、広島が舞台になるらしいよ。
- 240 : 名無しさん [] 2003/03/13(木) 07:54
>三次でおこった事件
ん?
見とらんけん 分からんとよ
「庭木引っこ抜き犯人」タイホーしたのかな??
- 241 : 名無しさん [] 2003/06/02(月) 21:36
殷・周の政変で日本に亡命か 弥生時代500年さかのぼる(アサヒ・コム)
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福岡市の雀居遺跡で見つかった弥生前期の人骨。同遺跡出土の土器に付着した炭化物などが、今回測定された
水田稲作の始まりは紀元前1000年――。国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究チームが、加速器質量分析計(AMS)を用いた最新の放射性炭素年代 測定法によって、弥生時代の開始が従来より500年もさかのぼるという衝撃的な研究成果を公表した。ときは殷(いん)(商)から西周へと中国の王朝が交代 する激動期。東アジアの古代史像が大きく変わるかもしれない。
●再検討迫られる東アジアの古代史
これまでの定説では、水田稲作は、弥生時代早期(縄文時代晩期後半と呼ぶ研究者もいる)にあたる紀元前5世紀ころ、朝鮮半島から北部九州に伝わったとされている。日韓両国の遺跡から同じ形の石器などが見つかっているからだ。
しかし、これまでの出土遺物の検討では弥生早期前後にあたるはずの朝鮮半島の遺跡で、同じAMS法で紀元前800〜前600年の暦年代が出るなど、時間的に大きなずれがあった。
今回、日本側の年代が繰り上がるとすれば、「かなり無理してつないでいた文化の伝播(でんぱ)がなめらかに考えられるようになる」(宮本一夫・九州大教授)という。
弥生文化流入の背景も再検討を迫られる。従来は、群雄割拠する中国・戦国時代(紀元前403年〜前221年)に、長引く動乱の余波が玉突き式に朝鮮半島にも及んだ結果、難民が流出。彼らが日本列島に水田稲作をもたらした、と漠然と考えられてきた。
が、水田稲作の登場が前1050年前後とされる殷・周交代期の前後ならば、この説は通用しない。「日本出土の銅矛や銅戈(どうか)は殷代の末ころのものに似ている。中国の影響が日本に直接及んだ可能性もでてくる」と熊本大の甲元眞之教授。
紀元前3世紀の秦の始皇帝の時代、徐福が不老不死の薬を求め東方の島に向かって船出したという伝説がある。古代日本は海のかなたの幻の世界。いや、古代の中国からみれば、文化の異なる野蛮人の住む「東夷(とうい)」のひとつとされてきた。
だが、もし、日本列島に中国古代の王朝交代の影響が直接及んだとすれば、日本は予想以上に早くから東アジア世界に組み込まれていたことになる。殷や周から 難民や亡命者がやって来ても不思議はない。7世紀の歴史書「梁書(りょうしょ)」諸夷伝には、日本列島の倭人(わじん)が自らを周の王族である太伯という 人物の子孫と称したという記述もみえる。
では、弥生文化は中国からの亡命者によってもたらされた――と言ってよいのか。
渡来系弥生人 には「身長が高く、のっぺりとした顔」という身体的特徴がある。殷の都と考えられる河南省の殷墟(いんきょ)からは、多数の人骨が発掘されているが、中に は、渡来系弥生人の特徴を備えた人骨もあるという。しかし、殷墟の人骨は基本的に殉葬(有力者と一緒に埋葬されること)されたもので、異民族や奴隷であっ た可能性が高いとされる。
むしろ、弥生人の起源の一つの候補として有力視されるのは黄河上流域にあたる青海省付近だ。
土井ケ浜遺跡・ 人類学ミュージアム(山口県豊北町)の松下孝幸館長が、この地域で出土した紀元前1000年ごろの青銅器時代の人骨約300体を調査したところ、その身体 的特徴が「弥生時代の北部九州や山口県で見つかっている渡来系弥生人と呼ばれる人々にそっくり」であることが明らかになったのだ。
これらのこと から松下館長は「青海省の青銅器時代人こそ日本の渡来系弥生人の原型だ」と語る。「黄河下流の山東省からも彼らとよく似た周代末(紀元前4〜前3世紀)の 人骨が出ている。青海省の人々が、移住してきたのだろう」とも推測する。殷・周の激動期なら、このように大規模な民族の移動もありうるということだ。
「殷を倒した周の太公望は山東省に斉を建国した。青海省の人々は太公望の一族で、それに伴って移り住んだのではないだろうか」。松下さんの想像は広がるが――。 (05/21 09:45)
- 242 : 名無しさん [] 2003/06/06(金) 18:10
http://www.asahi.com/culture/update/0606/007.html
- 243 : 名無しさん [] 2003/06/08(日) 19:17
武具や古文書など35点公開―吉川史料館で吉川広家展始まる
岩国藩の初代藩主、吉川広家(1561〜1625年)にゆかりの深い品々を紹介する「吉川広家展」が岩国市横山2丁目の吉川史料館で開かれている。重要文化財14点を含む計35点の武具、書状、美術品、茶道具などを公開している。
広家は吉川元春の3男として生まれ、兄元長の病死後、吉川家の17代当主となった。関ケ原の合戦(1600年)では毛利輝元が西軍の大将となって徳川家康と敵対したが、広家は東軍に参加するよう輝元に進言して毛利の軍勢は参戦をとどまった。
合戦後、家康は毛利家の領地を没収する意向を示したが、広家の懇請で毛利家は防長2カ国の領有を認められ、広家も岩国藩の初代藩主となった。広家は機略に富んだ勇猛な武将だったが、一方では茶道や和歌をたしなむなど文化的素養も豊富だった。
「南蛮具足」(桃山時代)や「鯰形兜」(同)などは広家の所用品。「勝軍地蔵騎馬尊像」(室町時代)は、広家が幼いころ祖父の毛利元就から拝領したもので、お守りとして戦場や旅行に携帯していた。
「吉川広家自筆覚書案」(1601年、重文)は、関ケ原の合戦前後の行動に関する広家の弁明書。元就の「天下を望むべからず」の遺訓や輝元の大阪城入城までの経緯などが詳細に記されている。
「吉川広家自筆書状」(江戸時代、周伯和尚あて、重文)は広家が永興寺の住職西堂(周伯和尚)から贈られた茶の味を批評した手紙。「数奇屋指図」(江戸時 代、広家筆)、「太平記」(1563〜66年、吉川元春筆写)、「吉川家箇条書」(1617年、広家筆)なども重文に指定されている。
そのほか、豊臣秀吉の遺品として広家に贈られた太刀(たち)、家康から拝領した短刀、千利休が広家に贈った書状、江戸時代初期に描かれた肖像画(吉川広家画像)などが展示されている。
6月15日まで。水曜日休館。観覧時間は午前9時〜午後5時。入館料は大人500円、高大学生300円、小中学生200円。問い合わせは吉川史料館0827(41)1010へ。
(3月16日朝刊)
- 244 : 事務局 [] 2004/03/12 06:28
蘇我馬子邸
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20040311/20040311010027731.html
- 245 : 事務局 [] 2004/05/15 06:02
東大寺灯籠は国産銅中心 8世紀のまま説に新根拠
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20040514/20040514010051191.html
- 246 : 事務局 [] 2004/05/15 06:03
正倉院宝物の白にカキ殻 「最古の使用例」確実に
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20040513/20040513010033531.html
- 247 : 事務局 [] 2004/05/15 06:07
弥生人に朝鮮半島の特徴 鳥取で出土の頭骨研究で
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20040514/20040514010044771.html
壁画防護の装置を取り付け キトラ古墳、本格調査前に
http://www.sanyo.oni.co.jp/newspack/20040513/20040513010004191.html
- 248 : 事務局 [] 2004/05/29 07:09
●蒲刈平成16年度将棋大会 出場募集!
朝鮮通信使資料館の観光巡り将棋ツアーとは、ひと味違った趣向で!
日時:平成16年5月30日(日) 受付10:00 開会10:30
会場:船田信義宅(TEL.0823-65-3710) 松濤園(朝鮮通信使資料館)前
会費:1,000円(弁当代含む) 学生=500円
主催:蒲刈将棋愛好会
連絡先:岩崎実(65-3037) 吉川純男(65-3040) 榊谷亨(65-2718) 高克利(68-0402) 住田誠(66-0407)
締切:5月24日(月)
※くれナビhttp://www.kurenavi.jp/ →蘭島文化財団→施設概要→松濤園(地図掲載)
松濤園は9時オープン! 将棋大会の前に、有名な朝鮮通信使資料館(御馳走一番館)を見学されてはいかが?
- 249 : 事務局 [] 2004/06/04 20:41
新選組に“政治献金”百両 近藤勇局長名の証書発見
新選組局長の近藤勇が、百両を“政治献金”した大坂(大阪)の商家に対し発行した証書が東京都内で見つかり、京都文化博物館(京都市中京区)が4日発表した。
証書は「新選組」の名称を朝廷から与えられた約2カ月後に書かれたもので、「新選組局長近藤勇」の署名がある。近藤はそれ以前の同様の証書には「浪士」の肩書を使っており、局長就任直後の貴重な資料という。
証書は和紙1枚で縦約20センチ、横約30センチ。毛筆で「金百両を武器料として受け取りました」との趣旨が書かれ、近藤の署名、花押(かおう)がある。発行は文久3(1863)年10月。献金主は「松坂屋」と記され、大坂・今橋にあった商家という。
証書は松坂屋の子孫が保存していた。新選組に詳しい霊山歴史館(京都市東山区)の木村幸比古学芸課長らが鑑定し、近藤の直筆と判明した。(共同通信)
- 250 : 事務局 [] 2004/06/26 13:24
福山の大村さん自費出版 伝承や地名から郷土史考察
------------------------------------------------------
(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hiroshima/news003.htm
福山市多治米町の仏具職人大村俊三さん(60)が、伝承と地名、姓をヒントに福山市南部や沼隈町などの歴史をたどった考察本「沼隈の名家 千年の歩み」(B6判、百八十ページ)を自費出版した。
地名や姓の由来をアイヌ語に求めた推論なども披露。
大村さんは「推察と伝聞による記述が中心で、評価は賛否あると思うが、違う角度から郷土史を考えるきっかけになるはず」と話している。
大村さんは、地元の貝塚跡を研究していた祖父と父の影響で、中学時代から歴史に興味を持った。
時代小説や古文書を読み進め、取引先の住職や檀家(だんか)と語り合う中で、歴史書には登場しない古里の伝承の数々に出会った。
「埋もれた歴史を独自の観点でひもときたい」と昨年一月、執筆を開始。
新田の開墾が進んだ八世紀前半、沼隈町上山南・菅田(すげだ)地区で入植した「倉田」「貝田」など六家のルーツに着目。
子孫に聞き取りし、刀剣や文書が代々受け継がれていた倉田家、開拓を担い、「開原」と改名して福山市瀬戸町に移った貝田氏などの沿革を紹介している。
さらに地名や姓をアイヌ語で読み解く手法を試み、「静かな海」の意のトモ(福山市鞆町)、「海への渡し場」を意味するクサド(同市草戸町)など、多くの地がアイヌ語の解釈で説明できると指摘している。
備後地方に残る口伝の数々も掲載。
都を追われ福山市・鞆の浦に身を潜めた室町幕府の将軍・足利義昭と、時を同じくして備後地方を訪れた尼子氏の家臣・山中鹿之介が落ち合おうとしていたのではないかと、伝説をもとに推察している。
1800円(税込み)で、市内の書店で販売。問い合わせは大村さん(084・953・3958)。
- 251 : 名無しさん [] 2004/07/01 17:03
▽三原・小早川隆景
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/takakage.htm
- 252 : 名無しさん [] 2004/08/18 13:01
下関・東行記念館できょうから「高杉晋作とゆかりの人々 遺品展」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamaguchi/news005.htm
- 253 : 事務局 [] 2004/08/28 11:47
日曜の朝9:00TV放映 三次の妖怪 新広島
- 254 : 名無しさん [] 2004/08/28 20:53
高杉城の戦で毛利軍に討ち取られた武田高貞、息子の貞近、高智をはじめとして六百余の亡霊かな
- 255 : 事務局 [] 2004/08/29 17:57
>>253
朝、忙しいのに、見てから、家を出たが、実際には、妖怪の話以外にも、サメの料理のこと、スイカの空中栽培、マムシドリンクの製法など、いろいろごちゃごちゃやっていた。
東京から、タレントが2人来て、取材しているのだが、ほんと、どうでもいいような話を、大袈裟なリアクッションをするので、さすがに、テレビ局も番組作りがうまいなあと、内容はそっちのけで、タレントの言動に感心していた。
- 256 : 教えて・・・ [] 2004/11/10 18:32
どして、吉川広家は、海を干拓したのぉ〜〜?おしけてください^^宿題なんだけどっ
- 257 : 事務局 [] 2004/11/10 19:01
>>256
ちょっと、それだけの質問では、私も分かりませんよ。
>吉川広家は、海を干拓したのぉ
・・・・だいたい何年ぐらいの話で、どこの海を干拓したのか? 何県のどこの話?
- 258 : 事務局 [] 2004/11/10 19:11
因みに、毛利元就の次男が、吉川元春。吉川広家は、元春の三男。
関が原の戦いでは、徳川家康に内通し、西軍の毛利家の参戦を阻止した。
関が原後、家康は、毛利家を潰す代わりに、吉川家に周防長門の2カ国を与えるつもりであった。
毛利家の窮地を救ったのが、広家で、自分が与えられる領地を宗家の毛利家に譲るよう、家康に進言した。
広家は、岩国の3万石だが、岩国藩の祖となった。
「海の干拓」とは、おそらく、岩国の海を干拓したのかな?
- 259 : 名無しさん [] 2004/12/01 14:05
▽中国地方大河ドラマ
http://www.taiga-drama.jp/
- 260 : 名無しさん [] 2004/12/08 12:00
iーー- ,,-ーーーーー、-ーつ
と、 , ´ ・("▼)・ ヽノ
.> ,,,-ーーー-、.<
( /i| l'┃ ┃〈リ )
ゝ(从|l、 _ヮ/从<お〜い事務局ちゃん ♪
〆(⌒)-ーー-(⌒)
( i⌒ヽ, i⌒ヽ,
ヽゝ、__ノー-ーゝ、__ノ
- 261 : 事務局 [] 2004/12/08 18:55
>>260
はあい。何か用?
そう言えば、だいぶ、前に、私がこの掲示板に、高杉城にまつわっての武田氏のことを書いたときに、・・・・・
この掲示板に対して、下記の「投書」があったですよね。
http://shogi-club.jp/bbs/test/read.cgi/accuse/1041518340/l50
「本家はこちらだ」と言うような趣旨でしたよね。
それと関わっているかどうか、分かりませんが、広島県内には、「武田学園」という有名な学校があって、その学園の設立者が「武田氏にゆかり」のある人らしいですね。
ただ、備後武田家のルーツは、安芸守護職の武田氏ですから、安芸武田氏の末裔の人なのかも知れませんがね。
確かに、高杉晋作のルーツを辿ると、備後武田氏であるという説と安芸武田氏がルーツだと言う説と2つあるみたいですね。
調べる時間がとれないので、かなり、不確かではありますけどね。
- 262 : 名無しさん [] 2004/12/08 20:22
,.. -―-- 、、 __ ,...
,.' ´ ``´  ̄ ``丶v'"´ |_
,. '´ , 、 \ |  ̄\
/ , l i ヽ \ヽ\ ヽ、 | /
/ ./ /,' !ヽ ヽ ヽ. ヽ ヽ ヽ. ヽ\i /
/ / ./ l _⊥ヽ‐ヽ、'T''|ヽ i i i > {
{{ | | レ'! ヽ\_\,,-,‐-!、'} ト、 l |/`ヽ〉
l l l | | |/Tハ |::f;;}| レ'r.}' / 、ヽ `ヽ、, _
!ヽN |、 | !` l:リ} ‐'‐' ,._,ノ ./ i `、 ヽ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`!ヽN ヽ" `ー /!ヘ.|./__ | ヽ f´ <歴史紀行再開カナまだカナ?
| | | `i - ..,.. '´''´ リ´レ`ヽ ,.-、| \サトカナ?バンカナ?_
! ! l,-┴/ハ ,.'´ `ヽレ'|/
ヽ N,. '´,.=El=、、/ / /,.>、
,\l〃〃|| ヾ / ./ / ヽ
/ //《_〃|!||ヾ、》 / / |
| // `´ l」l」. `´ | | 〉
- 263 : 事務局 [] 2004/12/09 18:04
>>262
再開だなんて、とてもとても。
って言うか、もう、今年度になって、疲れて、疲れて、もう、どうでもいいって感じで、ずうーと来ている。
- 264 : 名無しさん [] 2004/12/09 21:30
>>263
得意の口癖
>忙しい←時間の使い方下手っぴ
>疲れる←体力有るから誰も心配していない
*24掲示板「議論」の部主役。←呆れ返る程の長文連発!
↑ 此れ止めれば「イィ事務局」様なんですがねぇ
- 265 : 名無しさん [] 2004/12/09 21:51
>疲れて、疲れて
・・と言いながら書き込む書き込む↓
http://bbs.shogidojo.net/forums/index.cfm?CFApp=14
>もう、どうでもいいって感じで
・・こりゃ我々が言いたいセリフ
先生!貴方は長生きしますよ!車なら5年間10万q保証ですがねぇ
先生は100年保証しますよ。根気と体力有るもん!
※だから弐拾数年間「普及だ」「無料奉仕だ」とやれるのですわな!
北海道の○○田理事も、大阪の○山さんも、此処まではやれまへん!
もし、やつてたらアマ連&24Rガタ落ちデンガナ!
※ところで、部屋掃除は1年に1度程度しはりまっか?蜘蛛の巣はアキマヘンガナァ!
- 266 : 名無しさん [] 2005/04/13 23:23
王右衛門君最近姿見せないね
- 267 : 名無しさん [] 2005/05/09 02:15
そうだね
- 268 : 沖 朋弘 [] 2005/05/09 20:37
僕の疑問なんですかど・・。
広島城の周りには、堀がありますよね〜〜
ということは、昔広島城には、誰か住んでいたんですか?
- 269 : 名無しさん [] 2005/05/09 20:52
もちろんお殿様や家来らが住んでいました。
下記サイトを参照してね。
http://tikugo.cool.ne.jp/shasin/sanyo/hirosima.html
- 270 : 沖 朋弘 [] 2005/05/10 20:27
ありがとうございました。
- 271 : 事務局 [] 2005/05/11 07:02
>広島城の周りには、堀がありますよね〜〜
以前、広島将棋センターは、中区八丁堀にありました。
堀の長さが八丁あったと言うことで、この名がついたんですよね。
- 272 : 沖 朋弘 [] 2005/05/11 22:35
なるほど〜〜
- 273 : 沖 朋弘 [] 2005/05/11 22:39
僕も歴史が大好きなんで、色々な情報をおねがいします。
- 274 : 沖 朋弘 [] 2005/05/11 22:48
問題1
熊本城に住んでいた殿様は?
- 275 : ド素人 [] 2005/05/17 10:03
加藤清正ですか?
- 276 : 事務局 [] 2005/08/14 05:15
城下町の史実、展示でたどる '05/8/11
▽中国新聞より
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200508110086.html
----------------------------------------------------------------
■広島城で来月11日まで
江戸時代の広島が活気あふれる城下町だった史実をたどる企画展「城下町は消えなかったの?」が、広島市中区の広島城で開かれている。
原爆でも失われずに残った、城下町の面影を史料などで紹介している。
南区の県病院前電停付近の坂道が当時の堤防の名残であることを示す地図や、中区の紙屋町や小網町といった城下町ならではの職人が集まる地名の解説パネルなど、約四十点を展示した。
解説文は子どもにも分かりやすいように、祖父が孫に広島弁で話して聞かせる形式にしている。
9月11日まで。大人360円、小中高生180円。
- 277 : 事務局 [] 2005/08/23 10:55
光圀は幸運だった 歴史うんちく話
徳川光圀は徳川家康の孫です。
つまり、光圀は初代水戸家の頼房の子なんです。
ところが、光圀は、頼房の次男なんです。
なぜ、次男が水戸家を継いだかと言うと、・・・・・・
父親の頼房は、家康の子なのですが、家康の最後の男子の子でしたよね。
で、兄の頼宣とは、母親も同じなのです。
家康から、兄の頼宣は御三家のひとつの紀伊家を創設され、将軍家の秀忠に後継がいない場合は将軍になれる家筋になるわけです。
ところが、頼房は弟なので、水戸家を創設させてもらったが、将軍の地位にはなれない(つまり最高でも副将軍にしかなれない)家筋です。
そんな状況の中で、確か、兄の頼宣よりは、先に男子が誕生したので、頼房は、兄に遠慮して、長男を後継にはしなかった。
で、頼宣に男子が誕生した後に、頼房の次男である光圀が誕生したので、光圀を水戸家の後継ぎにして、光圀はたなぼた式に副将軍の地位がころがりこんできたわけです。
- 278 : ド素人 [] 2005/08/23 18:14
初めは駿河大納言家、尾張大納言家、紀州大納言家が御三家で、
水戸中納言家は家格が違うと初めに言っておかないと
名前は同じ御三家だから(「将軍の地位にはなれない」の部分が)
意味不明になるのではないですか?
- 279 : 事務局 [] 2005/08/23 22:04
>初めは駿河大納言家、尾張大納言家、紀州大納言家が御三家で
何かのレスがつけば、その事は確認のために書こうとして、取って置いたんですけどね。
こちらには、レスをつけていただいて、ありがたいですが、24の掲示板には、何もレスがつかないみたいですね。
- 280 : ド素人 [] 2005/08/23 23:22
次のネタバラシになっちゃったですか…(;´Д`)ゞやべ
- 281 : 事務局 [] 2005/08/23 23:37
まあ、ネタの1つですね。
でも、24にレスがつかないのに、これ以上書くのも、何か変だしね。
「知識の押し付け」みたいで、うざいと言われますからね・・・・・・
ネタ1 家康自身は御三家は「将軍家」と「尾張家」と「紀伊家」の三家と考えていた。
ネタ2 将軍家は別格で、御三家は「尾張」「紀伊」「水戸」としたのは、家光の仕業である。
ネタ3 家光は秀忠の子ではなく、家康の子だという説もある。
ネタ4 家康が水戸家を格下にしたのは、水戸家と天皇家を結びつけておいて、将軍家を含む御三家が滅亡した場合でも、水戸徳川家が生き残る道を残していた。
などと、ネタは次々用意はできていたのですが、レスがつかんので、お蔵入りになりそうです。
- 282 : 名無しさん [] 2005/10/29 22:15
{大室寅之祐}?????って何 教えて
- 283 : 名無しさん [] 2005/10/30 18:50
Googleで検索してみたら。
- 284 : 名無しさん [] 2005/10/30 19:44
282ですけど、Googleじゃ常識的な事しか出て無いと想うので、
ここは「事務局」さんの逆説の日本史論を聞きたかったのですよ。
- 285 : 名無しさん [] 2005/10/31 00:16
>>284
下調べして逆説日本史聞きたいなら解るが、
調べてすら無いのか・・
何を期待してるんかワケワカメ
- 286 : 事務局 [] 2005/10/31 00:23
>>284
え、何で、私が「逆説の日本史」の愛読者だと言うことを知っているの?
どこかで、書きましたっけね?
- 287 : よしあき [] 2005/10/31 00:33
>>286
ていうか、
このスレの元ネタって、その本が出所なの?
- 288 : 名無しさん [] 2005/10/31 00:56
井沢と仲良し だったりして 下調べ何かするより 聞いた方が面白いと おもうめ
- 289 : 名無しさん [] 2005/10/31 12:42
単に調べるのを甘えとるか
下調とのギャップを楽しみたいのか
よくわからんやつだ
- 290 : 事務局 [] 2005/11/06 22:36
週刊ポストは、広島県内は毎週火曜日発行なのですが、実は実は、11月18日号は、実は私の手元にちゃんとあります。
どうやって手に入れたかは、秘密です。
で、その証拠に、11/18号で、井沢元彦さんの「逆説の日本史」は、現在、「忠臣蔵、その虚構と真実」編を連載中ですが、そのIにおいては、・・・・・・・
「浅野は統合失調症だった」という主張が書かれています。
「統合失調症」とは聞きなれない言葉ですが、一昔前までは「精神分裂病」と呼ばれていた精神病の一種だそうですね。
浅野の殿さんが、刃傷事件を起こしたのは、精神病だったと言う井沢さんの主張が最新号には書かれています。
- 291 : 事務局 [] 2005/11/08 07:01
ああ、「忠臣蔵」と言えば、浅野の殿さんの奥さんは、三次出身だと言うことは、皆さんご存知だったでしょうか?
江戸時代、三次には、広島の浅野藩の支藩が一時期置かれていましたね。
その三次藩から、赤穂の浅野藩に、「あぐり」という姫さんが嫁いだわけですね。
三次町の本通り商店街は、昔は中心街の役割を果たしていたわけです。今でも、近くには、代官屋敷が残っていますね。
- 292 : 名無しさん [] 2005/11/08 21:25
>浅野の殿さんの奥さんは、三次出身だと言うことは、皆さんご存知だったでしょうか?
知ってましたよ。高杉の在の「鈴木左右衛門之丞」様の御息女「鈴木あぐり」様でしょ
- 293 : ド素人 [] 2005/11/10 16:07
左右衛門之丞…
「そうえもん」って、いつも思うけどどっちの門衛やねん!
って言いたくなる名前ですねぇ…
まあ意味は無いんだけどw
- 294 : 名無しさん [] 2006/01/10 00:05
無双正宗の眠狂四郎が使うこの無敵剣法は
瀬戸内海の小島で、老兵法師から伝授された
ものということになっている。この老兵法師
の先祖は龍神を守り神とする出雲尼子の家臣
だったということになっている。
島根の郷土史家は尼子氏の居城広瀬町に
かつて神業月の輪斬りという剣法が存在して
いたというこれが転じて円月殺法かと考えて
いるそうだ。じっさい、尼子の名将、山中鹿介
の兜には三日月がついていた肖像画が多く残
っており、尼子の中心的城は月山富田城と称す。
この広瀬がある安来地方では夏祭りに「
月の輪神事」という1000年以上もまえから
つづく品格のある催しがあるが、おそらくは
これからちなんでつけた名前と思われる。
同地方では今でも日本刀の原料となる和鋼
(玉鋼)をたたら製鉄で製造している唯一の場
所らしい。またこのたたらから発達した近代
製鉄工場が最新の鋼を製造している。また、
この地方近辺に、国宝「童子切り」とう最古の
名刀で知られた刀匠安綱の工房もあったと
伝えられている。いずれにしても、切れ味鋭く
美麗強靭の誉れ高い日本刀に縁が深い
場所である。
- 295 : 事務局 [] 2006/02/05 20:59
1石=180リットル=1両=10万円
だそうな。
- 296 : ド素人 [] 2006/02/12 20:44
>>295
一両10万円はよく聞きますが、確か米の価格からですよね?
江戸時代の相場は1石0.5〜2両で変動してたっぽいって聞きました
それにしても金40g弱が10万円って、
今の価値だとちょっと高い気はしますよねw
- 297 : 事務局 [] 2006/04/04 11:56
基本的な考え方としては・・・
〔一石〕=人間一人が一年間に消費する米の糧
〔一反〕=一石の米が取れる田の広さ
次の「方程式」もあったそうだ
米1石=絹織物1反=金1両
もちろん、時代の進展(江戸時代)とともに、その方程式は崩れ(ズレ)てくるのだろうけど。
- 298 : 事務局 [] 2006/04/04 12:08
●江戸中期
金1両=銀60匁(もんめ)
※注《1匁=3.75グラム》=永楽銭などの銅銭1枚(文)の重さ=現在の5円硬貨の重さ
とすれば・・・
銅銭約1,000枚=1貫文(いっかんもん)
4貫文=銀60匁=金1両=4分
すなわち、 1分=1貫文=銭1,000枚
- 299 : 事務局 [] 2007/12/29(土) 08:56
篤姫(あつひめ)
天保6年(1835)生まれ、 明治16年(1883)没。
薩摩・島津家の分家に生まれながら、江戸幕府の第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の正室となる。
が、病弱だった家定は嫁いでから約1年半後に亡くなり、篤姫はわずか23歳で落飾して「天璋院」と号する。
将軍の跡継ぎをめぐる幕府内の凄まじい抗争、さらには、故郷・薩摩を中心とした反幕府運動の激化した明治維新の動乱の中、
大奥を預かる総帥として、嫁ぎ先である徳川宗家のために、そして日本のために力を尽くした。
また、江戸城に迫りくる西郷隆盛ら薩摩藩を中心とした新政府軍に働きかけ、無血開城の実現にも大きな役割を果たす。
- 300 : 事務局 [] 2008/07/14(月) 05:19
篤姫の願い、見つかった 大阪に直筆短冊
▽朝日HP
http://www.asahi.com/culture/update/0712/OSK200807120081.html
- 301 : 冨永@創棋会 [] 2009/01/10(土) 20:25
僕の生家は、屋号「賀登屋」という尾道の商家でした。
(20年以上前に潰れました)
明治以降は金物屋でしたが、江戸時代は両替商も兼ねていたようです。
往時を偲ばせるモノは殆ど残ってませんが、唯一、持光寺の墓所にだけ
江戸時代に尾道が石見銀山の銀の積み出し港として栄えた痕跡があります。
全国で温泉津にしかないと思われる、墓所の入口に瓦屋根の門を構える様式が
ウチの墓所にも残っています。
…寺全体の墓地へ入る門に瓦屋根というのは多いが、ある世帯だけの墓所に
瓦屋根という様式は、将軍家の墓でも有り得ないらしいです。
室町時代に石見銀山の銀の積み出し港として栄えた温泉津と同じモノが、
尾道にも残っている事に、歴史の重みを感じます。
- 302 : 事務局 [] 2010/08/23(月) 13:04
日曜日の夜8時から、NHKの大河ドラマがあって、今年は「竜馬」をやっているけど、・・・
もう、一度、地方の歴史的なことがらを、書いておくけど・・・
高杉晋作の生家である「高杉家」は、広島県三次市の「高杉」町にルーツがあるんだよといういう話です。
過去に、何度か書いているので、繰り返しになるけど。。。
もう、一度、書いておきますね。
- 303 : 事務局 [] 2010/08/24(火) 08:36
●山口・高杉晋作家のルーツについて
江戸中期、毛利藩では、おもだった家臣の出自などの調査が行われたらしい。
で、その高杉家の提出書類に、高杉家の出自は、「備後の高杉邑が出自だと書いてあり、
なおかつ、高杉家のもとをたどれば、・・・・
源氏−武田氏−高杉氏 ということです。
山口に移ったのは、高杉小四郎という人で、高杉晋作はその子孫ということです。
資料は、山口の資料館に残っているそうです。